支配する側が文化も優れているのは当然である
★★★★★
とても面白い本でした。
一気に2周したのですが、そういう本は僕的に2〜3年に一冊だと思います。
特に面白かったのは、モンゴルは中国(漢人の居留地)も支配した訳ですが、中国人が「武力ではかなわないが文化は中国の方が上である」というのに対し、著者は「支配する側が文化も優れているのは当然である」と言っている部分です。
とは言え、我が国もアメリカの占領軍に支配された経験があるだけに、それに全面的に賛成はできないのですが、アメリカに優れた文化がたくさんあった事は事実だと思います。
当時の中国もそうだったのかもしれません。
などといろいろ考えさせられ、そういう視点からものを見ていったら面白いと思いました。
「岡田史観」の入門書
★★★★★
私たちは高校で世界史を習うが、「理解できた」という人はいないだろう。
人名や固有名詞の羅列で、しかも時代も地域も全然関係ないところへ急に
飛んだりする。全体として、何がどうなのかさっぱり分からず、混乱した
覚えしかない、世界史という教科への印象は大方そんなものだろう。極めて
大事そうな教科なのに、なぜそんななのだろうか。
本書の最初で、その辺の事情がきわめて明快に説明され、教科書的な世界史
の裏側を見せるような、中央ユーラシアに主体を置いた世界史の記述が試み
られる。他のレビューにあるように、記述や論理が少々強引だったり、学界の
メジャーではない独自の見識が特に留保もなく出てきたりと、少々危険な部分
はあるようだが、私としては本書の最初にある教科「世界史」批判と、真の(?)
世界史への志(妄想とこき下ろすことも可能だが)を最大限買いたい。
なお、この著者独自の割り切った史観を「岡田史観」というらしい。文体も
「(13世紀初頭の世界情勢は)大体こんなところだが、当時はまだ世界の
片田舎に過ぎなかった西欧の様子をついでに確認しておこう」というような
極めて割り切ったものであり、最初に読むとまさにクラクラさせられる。
教科書的なつまらなさ、専門書的な煩瑣さ、小説の嘘くささが嫌で、でも歴史を
大きな視点で理解したい人には大変刺激的な本だと思う。
単一世界史づくりへの最初の試み
★★★★★
岡田氏の著書は「歴史とはなにか」(文芸春秋)と「モンゴル帝国の興亡」(筑摩書房)(いずれも二〇〇一年刊)に続いて三冊目。いずれも普遍性のある歴史を学術的遺産として後世のために認(したた)める最善の努力と細心の思慮が込められた作品の印象。本著(一九九二年出版、九九年文庫本化)でもこの精神は貫かれ、「筋道の通った世界史」つまりグローバルな視野に立つ今日の人々の理性基準に相応しい系統的な、かつその中に日本史を位置付ける単一な世界史を組直すという壮大かつ根本的テーマに“最初の試み”として取組んでいます。文明は当初地球上各地で芽生え、そこで培われた個々の人生観・価値観の相違が、歴史を記録するか否か自体の相違、また歴史記述の思想の相違を携えながら、時代の変遷とともに遭遇・交流していきます。すなわち“歴史”は普遍的また均一な文化として始まり、人類に継承されてきたのではありませんでした。著者は互いに相容れない歴史文化の二大潮流としてヘーロドトスの『ヒストリアイ』、『旧約聖書』、新約聖書における「ヨハネの黙示録」に由来する地中海・西欧型と、司馬遷の『史記』と司馬光の『資治通鑑』(中華思想確立に寄与)に由来する中国型を挙げます。そしてこの夫々の地域への中央ユーラシア草原勢力からの外的影響を加味しつつ、その雄(ゆう)として十三世紀初頭に浮上、東西を広範囲に治めたモンゴル帝国創設をもって「世界史の誕生」(それまでは世界史以前の時代と区分)とします。この単一世界史観を支える最初の代表的史料が十四世紀初めにラシード・ウッディーンがペルシャ語で書いた『集史』。チンギス・ハーンの子孫サガン・セチェンが十七世紀に宇宙の起源から人類の発生と堕落を含めて壮大に記した『蒙古源流』も補足。同帝国の遺産は今日のインド人、イラン人、中国人、ロシア人、トルコ人に“顕著に”その痕跡を残すと断言します。地球的視野で物事を見る時代には当然出てくるべき書。
岡田と(妻であり同業の)宮脇淳子が杉山正明を批判している
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私は特に歴史好きでもない一般読者だが、『世界史の誕生』には目を啓かれた思いで、岡田英弘のほかの本だけでなく、同系統の杉山正明の本なんかもぱらぱら読んでいた。
ところが、である。
今日、岡田と(妻であり同業の)宮脇淳子が杉山正明を批判していると知った。雑誌『ぺるそーな』(2008年10月号,66-69頁)か岡田夫婦のHP「岡田宮脇研究室」でその全文が読める。
杉山に対する「反論」という形だが、何があっての反論なのか、文章からはよくわからない。執筆者は宮脇で、要するに、杉山は夫婦の研究成果に多大な影響を受けながら、これまで自著には岡田・宮脇著作を参考文献として一切挙げず、自分の手柄のように振舞っているということらしい。
しかし、「とうとう書くことにしたのは、若手の研究者のためです」とか書いてるが、これまで20年近くも沈黙していたのは、研究者よりも、とぼしい情報の中、身銭を切って本を選んでいる一般読者に対して不親切だろう。
「岡田と宮脇は、それぞれ若い頃に日本の東洋史学界の中で派手な論争をおこない」「日本の東洋史学界からはとっくに追い出されて、学界とは無関係に研究を続けております」なんてことも、研究者には常識かもしれないが、私はまったく知らなかった。
また、後半では杉山の著述の間違いをいくつも指摘してるが、そういうことはその本が出た時点でさっさと済ませておいてほしかった。この機会がなければ放置しておくつもりだったのか。
今回の件から考えると、かつて、岡田が杉山と同一タイトルの本を書いたのは(『モンゴル帝国の興亡』。未読)、偶然ではなさそうである。嫌がらせ?
日本史の網野史学に匹敵する目からウロコの世界史
★★★★☆
学生時代、世界史は好きだった。しかしなぜか中国を中心とした東洋史になると
まったく頭に入ってこなくなるのが不思議だった。
当時は見慣れない漢字のせいだろうと思っていたが、実は中国の皇帝に都合の悪い部分は
隠蔽した上で無理やりつじつまを合わせた胡散臭い「歴史」だったから
納得がいかないので苦手だったのだとわかった。
確かにモンゴルに代表される中央ユーラシア起源の遊牧民を核に世界史を見ると
非常に世界史は理解しやすい。
ただ、なぜ中央ユーラシアから次から次へと先発の民族を凌駕する民族があらわれてきたのか、
なぜその流れが現在は途切れてしまっているのかを明らかにしてくれないと読後に
尻切れトンボな物足りなさが残る。最近の著作では明らかになっているのだろうか。