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「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)

価格: ¥700
カテゴリ: 文庫
ブランド: 角川書店
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   1960年代末から1970年代初頭にかけての時期は、学園紛争が吹き荒れる一方でサブカルチャーが隆盛の兆しを見せ始めるという、今考えると非常におもしろい時代だ。終戦以降の戦後民主主義社会の見直しと、今に続く高度消費社会への準備とを、世の中全体が同時に行っていたわけで、その意味では、政治、経済面ではもちろん、社会、文化、風俗面から見ても、日本の精神史の山脈に表れた一番大きな分水嶺と言えるのではなかろうか。

   連合赤軍事件が起きたのは1972年のこと。本書は、この事件の裏側に、70年代以前の時代精神と、以降の消費社会的な感性との対立があった事実を指摘した本である。山岳私刑(リンチ)の発端が女性活動家の指輪にあったこと、同じ女性が党派の首領を「かわいい」と評したエピソードの紹介など、一見何でもない発見のように見えるが、事件の担い手たちのその後を、獄中手記などを手がかりに記述する著者の詳細な分析にかかると、この事件が70年代という時代の結節点を、見事に象徴していることに思い当たるのである。

   著者は「ぼくの関心は『矮小』なるものの歴史化に向けられる」と言う。「(それが)サブカルチャーとして生まれた世代の唯一の『成熟』の形ではないか」と。連赤同世代の相対的な沈黙に比し、後続世代がかくも真摯な分析を行ったことを、どう考えればよいのだろう。ちなみに著者は1957年、森恒夫は44年、永田洋子は45年の生まれなのである。(今野哲男)

評論というほどにはまとまっていない ★★☆☆☆
タイトルは連合赤軍だけれど、オウム真理教とか、日本国憲法の成立とか、村上春樹を扱った評論とエッセイの中間ぐらいの書物。

昔むかし恩田陸の「ネクロポリス」の第一話が掲載された号の「小説TRIPPER」にあった大塚・恩田の対談で、恩田が冒頭で「名著ですね」と言っていたので読んでみたのですが、これに名著認定を贈ったら、世界中の本が名著ですよというぐらいの程度のものだったので少しがっかり。

もちろん、私の知らないことはたくさん出てきたので(例えば連合赤軍の人たちがどういう人々だったのか、など)、ためにはなりました。

とはいえ、なんでもかんでもサブカルチャーとフェミニズムに結び付けようとするところが疑問に思えるのですが。
連合赤軍に関して言えば、本当に子どもだったのだな、としか思えませんでした。

「統括」なんてまるで小学校の「帰りの会」だし、森恒夫の「生理の時の出血なんか気持ち悪いじゃん」「どうして生理帯が必要なんや」なんて、小学生のガキが同級生をからかって言う言葉にしか聞こえない。「男なんて股の間に急所ぶらぶらさせてるバカじゃない」とか言われたらどう答えるんだろう。(しかも、そんな発言をしながら、レイプをやったりしていたらしい。)

一番おもしろかったのは第2部の“「彼女たち」の日本国憲法」”の□1の章。大塚個人の国家観を除くと、ほとんどは他の書物の引用ながら、日本国憲法の草案づくりの流れについて読むべき2次文献をあげてくれているので一応有用かと。

初出は書いてあるけれど、参考文献・引用文献一覧はなし。
<私>をとりもどすということ ★★★★☆
1970年代初頭に勃発した連合赤軍の浅間山荘立てこもり事件。凄惨なリンチ
殺人とともに、戦後日本の転換点としてこの事件を位置づけ振り返る言説は、
評論家や当事者の口を借りてもつねに、政治的な色に彩られていた。そのこと
に対して著者が感じた違和が、この本のきっかけにはある。

永山洋子ら当事者の手記などから、大塚が丁寧な手つきで取りだそうとするの
は、70年代に密かに萌芽していた女性の<私語り>。それは<乙女チック>に
代表される消費社会的感受性だ。同時に、政治的な言葉を借りなければ、消え
失せるしかない同時代のあまりにも貧弱な<ぼく>の言葉にも焦点を当てている。

彼によれば、この萌芽は同時代に発生した「24年組」が手がける少女マンガや、
上野千鶴子らのフェミニズムに接ぎ木される。それだけに、仲間の屍をつくりあげ
た後、獄中において初めて自ら抑圧してきたものを解放するための「乙女チック」
イラストという表現手段の遅すぎた「発見」をすこやかに成し遂げた永山に送る大
塚の視線は、憂いに満ちている。

ここまでだとなぜ彼が70年代の連赤や少女マンガ、ひいてはフェミニズムに拘泥
するかがわかりにくいがそれは、第二部「『彼女』たちの日本国憲法」にて判然と
する。要するに彼は、敗戦と「押しつけ憲法」によって受動的に始まった戦後民主
主義のなかで生まれたのがまんが、そしてフェミニズムや消費社会的感性に代表
される女性解放する「思想」であり、それは70年代以降の歴史のサブカルチャー化
をも引き起こしたが、万事は結果オーライじゃないか、と言いたいわけだ。

これについて、正直なところ評者の見解は、旧版あとがきで引用される浅田彰の
<矮小さ>という言葉が一番近い。少女マンガのふろくで語れるほど、歴史は言
葉を失っているのか。それは定かではないが、とにかく「戦後民主主義社」を自称
する彼の主張の輪郭が一番見えやすい本であることに、かわりはない。
戦後史を語るということ ★★★★★
 本書では、日本国憲法が、連合赤軍が、宮崎勤が、オウム真理教が取り上げられている。
 一つ一つのテーマは細部にこだわっている。いや、余りにこだわり過ぎてると言えよう。
 例えば表題にもなっている「連合赤軍」事件については、「消費者社会に変わりゆく日本での女性のあり方」が繰り替えし問われており、連合赤軍・新左翼・マルクス主義に対する言及は一切なされてない。だから、これだけを読んでも私たちは事件の「全体的な戦後史における位置づけ」などわからない。
 
 だが、こう書きながらも、「全体的な戦後史」などというものを信じていない私がいる。少し前、新しい教科書運動や首相の靖国参拝を契機として、戦後『史観』が論壇やマスメディアで激しく戦わされた。ショーとしてそれは大変に興味深いものだったが、では個人的に「戦後派」のおまえはどう思うのか、と問われると(大学で憲法を学んだり、学生新聞を作ったりするとこんな機会に何度か遭遇する羽目になる)、著者のような感想を控えめにもらすしかなかった。
 
 「戦後史を『何となく』という、非歴史的な時間としてしか見ることのできなかった丸谷、逆にその起源を批判する余り『サブカルチャー』を歴史化することを拒否する江藤、そして屈託なく自らの戦後文学史からサブカルチャーを葬る大江。これらの人々の戦後史観はそれぞれの政治的立場を超えて奇妙に一致する。
 すなわち、彼らにとって戦後とは『サブカルチャー』であり、それは『歴史』の名に値しないものとみなされる。そのことにぼくは深く困惑するのだ。そしてつぶやかずにはいられない。戦後社会に生れ落ちたぼくが生きてきた道筋は本当に『歴史』の名に値しないのか、と。」(P151)

 すると、大抵左右どちらの陣営からも「価値相対主義に陥っている」だとか、「歴史に対する興味が薄い」だとか、そういった批判を受けることになる。歴史的解釈についての見解の相違、あるいは絶対的な歴史知識の不足を批判されるのは理解できる。だが、歴史「意識」を批判されてしまうと、そういう風な意識をこの時代で自然に獲得した私は立ちすくんでしまうしかない。
 本書では、戦後史評論であると同時に著者自身の「いわゆる歴史意識の不在」の問題が繰り替えし問われている。私はこの著者の姿勢に全面的に同調する。

 「日本国憲法および戦後民主主義への評価は、それがいかなる政治的起源をもって始まったかの立証によって終結するわけではない。それは出発点にすぎず、その後、私たちはそれをいかに生きたかこそが検証されるべきである。戦後という、ある種の人々にとっては愚かしい日々もまた歴史なのであり、だからこそぼくは『戦後』との和解を常に主張し続けるのである。」(P171)
 
 戦後に起こった「歴史的出来事」を戦後史という大きなフレームで理解しようとする時、事件の渦中にいる人々の小さな感覚や意識といったものはなかったこととされる。だから著者は、「男たち」によるフレームを取っ払い、余りにも些細で傍流の「彼女たち」の歴史の中でのつぶやきを丹念に書きとめていく。
 
 歴史とはどういうものであるのか、そんなことは私にはわからない。だが、今日のわが国において、歴史意識の薄い自分自身が、歴史的な事柄を考えなくてはいけないとしたら、それはまず「歴史意識の薄さ」を引き受けた上で、小さく微細な事柄についてつぶやき続けることによってのみなされるのではないだろうか。
知らないから知りたくなる。 ★★★★★
連合赤軍。今、いろいろな本で読むと、あまりにも凄惨なその事件に驚きを隠せない。しかし、この時代を私はじかには知らない。知らないから知りたくなる。そんな思いでこの本を読んだ。結局この事件、私には理解できないままなのだが、極限まで追いつめられた人間の集団はこうなるのだろうか。「〈かわいい〉の戦後史」については、その時代に生きている自分として感覚的に理解できた。いい本だと思う。
木を見て森を見ず。何が言いたいのか不明。 ★★★☆☆
本書のメインの内容は戦後のサブカルチャーについてであり、連合赤軍に関係した内容はごく一部である。

オウム真理教や宮崎勤についてもかなりの紙面が割かれている。

連合赤軍について別の視点から考えるという点で本書の意義はあるが、サブカルチャーという観点からのみ事件を考えるのは無理がありすぎる。

一種のこじつけである。

サブカルチャーを幹とし連合赤軍やオウム真理教はあくまで枝葉として論じるべきであった。

本末転倒しているから結局何が言いたいのか分からない。

副題の「サブカルチャーと戦後民主主義」を主題名として再構築すべきである。

本書の最後のほうに出てくる<戦後日本は正史を持たない>の一文についてはその通りと思う。

この一文は<戦後日本は、サブカルチャーばかりであり、正史を持たない>という意味である。

サブカルチャーを研究した者として、サブカルチャーとは所詮その程度のものなのだ、という結論であればインパクトもあろうが、そういうことでもなさそうだ。

個々の漫画や小説についての詳細な記述は優れているが、結局何が言いたいのか分からない。

机上のこじつけ論理で考えるから永田洋子像についても正確に捉えられていないと思う。