インド出身で、1998年にアジアで最初のノーベル経済学賞を受賞した著者は、「開発経済学の観点から途上国の貧困問題に取り組んでいる」と紹介されることが多い。しかし、実際は厚生経済学・社会的選択の理論への革新的な貢献がノーベル賞の受賞理由であり、経済学に倫理的な側面を復権させたという点が評価されているのである。
経済学は歴史的に「倫理学」と「工学」の2つの起源を持ち、かつての偉大な経済学者たちはこの両方のアプローチを用いて理論を構築してきたが、近代経済学の発展とともに倫理的アプローチの重要性は大幅に低下した。そのため「現代経済学は大幅に力を失った」と著者は指摘する。そして「厚生経済学は倫理学に注意を払うことで豊かなものになりうる」「実証主義経済学も、厚生経済学的考察を取り入れることで助けられる」と提言している。このように本書では、経済学に倫理学の視点を導入し「道徳哲学としての経済学」を樹立する必要性を訴えており、著者の経済学に対する基本的な考えが示されているといえる。
多くの人は、「人間は自己利益最大化のために行動する」などの、経済学の単純化・モデル化のための前提を何の疑問もなく受け入れているであろう。しかし実はこの前提に「人はいかに生きるべきか」などといった倫理学的な観点が欠落しているために、経済学が限界に直面しているという著者の指摘には驚かされるに違いない。
本書は、大学で行われた特別講義をもとに著されていることもあり、専門的な数式はいっさい使われておらず、また全体的に平易な文章で記されている。さらに巻末に詳しい人名・用語解説も設けられているため、研究者や学生だけでなく、経済学の知識が多少でもあれば無理なく読めるようになっている。
著者の研究に関心を持っている人にはその入門書として好適であるのはもちろんであるが、そうでない人にとっても、経済学や経済事象についてあらためて考えさせられる機会を与えてくれるであろう。(戸田啓介)
経済学を学ぶ際に
★★★★★
本書は、アジア初のノーベル経済学賞受賞者(1998年度)であるアマルティア・セン博士(Amartya Sen,1933-)の“On Ethics and Economics”(1987)の全訳です。
本来であれば、本書を評するには、社会的選択理論における「現代の古典」とも謂える『集合的選択と社会的厚生(Collective Choice and Social Welfare,1970)』などを押さえる必要があるとは思いますが、そうした意趣を抜きにしても、経済学を学ぶ者は、一度眼を通しておくべき書籍だと考えます。
確かに一面で、現代の経済学において倫理性や道徳性を望むのは、「八百屋で魚を求めるがごとし」なのかもしれません。だからこそ、本書で示されたようなセン博士の営みは非常に有意義なものがあり、経済学(決して、この学問領域だけに限らないのですが―)を考究する上で、貴重な「価値」を提供してくれる書物だと確信しています。
もともとの経済学とは?
★★★☆☆
本書でも触れられているように、人間の行動を少し観察すればわかるように、人間は、新古典派経済が前提としているような自己利潤最大化のみを目指して合理的に行動するものではないことはすぐにわかる。経済学の父とも言われるアダム・スミスは道徳哲学などについても学生に講義を行ってきたのにも関わらず、スミス以降の古典派や新古典派へ移行すると、道徳哲学や倫理観などが取り除かれた合理的な人間像が主流派経済学において大前提となった。しかし本書籍でも言及されているように、実際の人間行動においては倫理的思慮が無関係ではありえないような動機付けに基づくとも考えている。新古典派経済の研究者の方々も、このような人間の社会的な側面について理解されているはずなのだが、このような側面を安易に認めてしまうとこれまでの合理性の人間像に基づく研究成果を自ら否定することになりかねないため「経済学の再生」で追及されているような倫理的な側面を包含しようとはしない歪んだ学問関係がある。本書の内容を組み入れた経済学の再構築が求められているのではないだろうか?
容易であるからこその誤解も……
★★★★☆
読みやすいものであることは確か。社会的選択理論、並びに厚生経済学(ここでこれら2つのワードは同義ととらえてよい)に興味を持ちやすい一冊だろう。しかし、残念ながらこの一冊では社会的選択理論は理解できない。この本並びにセン、または他の厚生経済学者(アローや、日本で言えば鈴村興太郎さんあたりか)の本をできる限り精確に理解したいと思うならば、すでに社会的選択理論を学んでいるか、あるいは何らかの社会的選択理論に関する本で、最低、アローの一般可能性定理を数理論理学を用いて、自分の言葉で説明できる位理解していることが重要かつ必要だろう。
もしそうでなければ、彼らの最も評価されるところ、即ち論理的証明の精確さに基づく、完全に理想的㡊ª!社会創造の不可能性には、まず気づかないことだろう。そして、それを踏まえた上での、打開(正確には、どの分野を削るかの妥協)策の価値も深くは理解できないだろう。センにおいては、capability(日本語では潜在能力)を発揮できる環境を整えるという意味で、換言すれば誰でもスタートラインは平等にしたいという意味で、entitlement論を設定し、発展させていっていっており、それによって、彼の打開策を打ち出しているのだ。そこでそれによって彼なりに、できるだけ理想的な社会に近づこうとしているのだ。今この考えは国連開発計画(UNDP)にも、広く導入されている。
こうした流れを押えるのにも社会的選択理論の、最低アローの一般可能性定理の、できるだけ精確な理解が費用である。センがノーベル賞受賞記念講演で述べている通り(詳しくは、99年7月のAmerican Economic Review参照)、彼の真の業績がどこにあるかを見誤ってはいけない。
以上述べてきたようにできるだけこの本を真に、本質的に理解しようとすることは、さほど容易くはない。だが、その道を開くという意味と、道が開けたときに読む本としては良書であるが、完璧に厚生経済学を説明してくれるものではないという意味で、評価をあえて星4つに留めるところである。
センの基本的な立場がよくわかる講演録。
★★★★☆
センの基本的な考え方がよくわかる、平易な講演録。近代経済学が採用する合理的な個人、自分の利益のみを最大化しようとする個人という前提を額面通りに受取すぎ、議論のための単純化にすぎないことを忘れてしまうために、経済学が必要以上に自分をせばめ、力を失っていることを指摘し、倫理を経済学に再導入するべきだと論じている。また同時に、経済学との交流を通じて倫理学も得るものがあるはずだと指摘する。なるほどね。講演なので、手を動かして式を追わなくても楽に読めるのでありがたい。センの議論の大筋をつかみたい人にはおすすめ。ただし、訳者の一人による解説は酷い。素人はセンを読んでわかったつもりになるな、アローらの一般可能性定理がわかってないやつはセンの主張は理解できないぞ!と無用な脅しをかけ、さらにセンの英語は複雑だのレトリック重視だのわかりにくいだのと、これまた人を遠ざけるようなことばかり。ごく普通の英語だよ。そしてじゃあ、そうやってでっちあげたセンと読者との距離を埋めるために何をしてくれるのかと思ったら、その後は単なる自分の身辺雑記。また、人物や事項解説がついているけれど、あまり役にたつとは思えないむずかしい記述ばかり。これらを省いて、2000円以下におさえればもっとよかったのに。が、まあそういう部分は読まなければいいだけのこと。セン入門としていちばん手頃な本ではないかな。