文人とはこういう人なのかなと思うにちがいない、だれもが
★★★★☆
ドイツ文学者としてあれだけの仕事をしながら、ちっとも学者くさいところがなく、山道ですれちがったおじさん、たまたまひなびた温泉宿で出会った奇人みたいな印象を与えるのが著者。外国文学者=エッセイストとして一時代双璧をなしていた渋澤龍彦と種村季弘という(互いにいとこどうしみたいな)二人から見て、さらに年少のいとこといったおもむきの文筆家だったが、いまではおしもおされもせぬ独自の位置をしめる大人(たいじん)となった。とにかく筆が立つし、知識の幅がひろい。こだわりはあるが、同時に軽みがあるので、癖も気にならない。この一冊も楽しく読めた。読書論的部分が、いまは心に残る。「世界の歩調に合わせてたえず自分を修正してきた。捨てたものは失ったものではなく、蓄積したものがすべて無駄というのではない。しょせんは楽しい愚考だったとしても、必ずしも愚かずくめであったわけでもないだろう...。/しかしながら、ほんとうにトーマス・マンがブレヒトによって越えられたのか。ヘルマン・ヘッセがカフカによって帳消しになるのかどうか。古本屋に売り払ったからといってハンス・カロッサがあとかたもなくいなくなるものか。かつてトーマス・マンと結んだ知己によって自分は何を得たのであるか。ヘルマン・ヘッセの陳腐さがカフカによって乗り越えられると信じているのか。」もちろんこうしたすべては修辞学的な疑問文、失われたものは何もなく、乗り越えられたものも何もない。読書は、文学は、そんな風には進まない。そう思うと、こんどはこっちが、物置の古い本をちょっとだけひっぱりだして風に当てたい気になってくる。それが汚いランドリーのエアリングみたいに人には思われても。