本当は星4つ。でも…
★★★☆☆
読後10年以上経っている。
本書以前に、著者の小説を読んだのは、それからさらに20年ほど前。10冊ぐらいを、ほとんど高校時代に読んだのだが、20年経っての感想は、読みやすくなったということ。著者の初期の作品は、かなり大変だった。高校生だったこともあったのだろうが、文章も違っていると思う。
内容については、色々と考えさせられるところもあり、面白いところもありで、比較的満足した。高校時代に好きだった作品と比べても、同じほど、好意を持てた。
ただ一点、気になることがある。本書に登場するジャーナリスト、1980年代のことを知る人にとって簡単にモデルが想像できる。当時、著者を厳しく批判した人だ。どちらが正しいとか、言うつもりはない。しかし、こういった形で書くのフェアではない。小説を意趣返しの道具として使っているようにしか思えない。
それが、星を一つ減らした理由。
共同体や物語が破壊された今の日本でこそ読まれるべき小説
★★★★★
この小説の前半では、現代という時代設定でありながら、おのおのの各自の行為が神話的統合性を織り成し、それが、厚みのある共同体として存在感を放っている。それは、今では、破壊されてしまったかつての日本の農村である。
民話の言い伝えの伝承やお祭り、そして、偶発的事件により、この共同体の祭主ともいうべき役割が、オーバーからギー兄さんに伝承される。
大江健三郎の描く共同体は、非常に現代的である。ギー兄さんとなる隆は、外交官の父に生まれヨーロッパやアメリカで教育を受けている。この隆の精神性は、イエーツの読書や、アメリカの大学での哲学的な問いにその根源があり、それが、オーバーの土着物語を継承する土壌になっている。
このオーバーから、隆へのギー兄さんへの継承は、強制されたものでも、選挙によるものでも、宗教によるものでもない。神話的に(もしくは、迷信的に、もしくは民俗学的に)と村民の自然な納得をもってそれは、なされるのである。隆にしても、それは、自分の読書や哲学的な問いの延長線にある。
(大多数の日本人がもはやこういう(民俗的)共同体を経験していないことと思う。この小説を読めば、それがどういうものか感覚を得ることができるだろう。)
後半に入ると、ギー兄さんの小児がんや心臓病の子供にむけられた「救済」が、多分に、風評的なあおりで宗教的意味合いを帯びてくる。ギー兄さん自身には宗教家めいた野望はなく、「森の力」やオーバーの言い伝え、そして、自分の哲学的な思いの延長で、村民の求めに答えようという思いしかない。
やがてこれは、マスコミや村民のギー兄さんにたいする糾弾に転化し、「『救い主』が殴られる」のである。
農村的共同体が解体し、そうしたものを全く知らない日本人が大多数を占める中、この小説は、この失われたものがいかようにして、現代に再興されるかということを探っているように、僕には思えてならない。おのおのの登場人物やこの共同体が、僕の目には、魅力的に映る。
別の読み方をすれば、この小説には、神話の再生、神話から宗教への移行、宗教的なものへのジャーナリズムの反逆、宗教的権威への持ち上げると同時に貶める行為、性転換者の運命観等々、数々の非常に重い内容が扱われており、いろいろな読み方ができる壮大な本である。
サッチャンはギー兄さんのヨハネ?
★★★★★
ひとり夜空を見上げる際、私は不幸であったと思うことがある。私に存在自体が意味づけられず、昔呟いた早く死にたいという言葉が蘇る。私は良い生き方をしてこなかったし、それは定められた運命だと思っている。自らの存在を疑わない人間は一生幸福のまま死んでいくものだと思っていた。洗礼者ヨハネはキリストの道を準備するため荒野に現れた。キリストは神を信じれば永遠の命が得られると説いた。この無意味だった私の転換が救い主であるギー兄さんを支えるためだとしたら私の人生はどのような意味を持つこととなるのだろうか。それは私にはわからないが、転換は生き方の根幹として意味づけられたこととなった。
自分を救うのは自分
★★★★★
大江健三郎が、神とか宗教に頼らずに「魂のこと」を扱った作品。
この小説を読んで私が考えたのは、過ちや後悔に執着せず前向きに生きるためには、しっかり、自分の頭で考えて心の整理をすることが重要ということ。
たしかに宗教によって救われる者も多いだろう。
しかし「神」は人々を思考停止させる装置になり得るし、宗教は活動面に針が振れてしまうと目的を見失う恐れがあるので、人々が宗教で本当に救われているのか疑問だ。
やはり、一つひとつ自分の頭で考えて解決していかないと救いはないと私は考える。
その教科書はないが、この小説で引用されている多くの言葉はその助けになる。
救う人、救われる人
★★★★☆
救い主と看做されたギー兄さんは己の奇跡的な治癒能力を懐疑しながらも、救いを求める人々に真摯な対応をする。重病の少年カジはギー兄さんとの対話の中で魂(精神)の安堵を得ていく。しかし、人々の求める救いは病気が治るというようなもっと可視的なことであった…。この物語を綴る両性具有のサッチャンの言葉を借りれば、村人たちはギー兄さんを救い主として「発見」しただけだった。「発見」だけでなく「理解」と「受容」を伴って初めて救う人と救われる人の関係は成り立つのであろう。特異な体験からギー兄さんを救う人として受容したサッチャンとギー兄さんの新たな活動が第二部へと続く。