インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

花腐し (講談社文庫)

価格: ¥490
カテゴリ: 文庫
ブランド: 講談社
Amazon.co.jpで確認
人生の途中で“彳(たたず)む”小説 ★★★★☆
 「ひたひたと」「花腐し」の二編が収められている。二編に共通して出てくる象徴的な言葉「彳(たたず)む」。松浦寿輝の小説は、人生の途中で“彳(たたず)む”小説である。「ひたひたと」で主人公はこんなふうに語る。「時間っていうのね、流れないんです。‾残留している。人間の記憶なんていうものはね、その場に現にあるもののことなの。思い出じゃないんだ。イメージでもない」。つまり、過去も現在も「全部いちどきに今ここにいる」。日常の忙しさにかまけているとそれに気が付かない。でも、人生のある瞬間、過去への回路がいきなり開けることがあるものだ。ずっと親友だと思っていたあの男のことを実は出遭った時から憎んでいたこと、そしてあの男も自分のことを憎んでいたのだろうという確信。今はもうここには存在しない女が、想えば何時のときも自分を赦してくれていた、それなのに自分はいつもその女を傷つけていた、という悔恨。
 「ひたひたと」の“とまれみよ”、あるいは「花腐し」の“フリダシニモドル”。そんな人生を“彳(たたず)む”べき時のサインに人は果たして気付けるかどうか?松浦寿輝の小説、それ自体も、そんなサインのひとつのような気がする。
松浦寿輝の本「方法序説」のレビュー ★★☆☆☆
本書は昔風に言えば自著解題。著者は自著では「野暮と真剣」を避けてきたと述べる。これは著者のお師匠蓮実滋彦の表層批評の物真似。師匠蓮実と同輩の四方田犬彦にあって松浦にないのは、真の表層批評の実践力。松浦の詩も小説も、批評も、逸話を垂れ流して量的に肥大するだけで、対象に真摯に取り組まない。そこでは確かに「野暮と真剣」は回避されるが、対象への真摯さがない。蓮実四方田にあって松浦にないのは、対象と真摯に向き合うことで、誰も気づかなかった対象の新しい魅力を発見することである。松浦は、だらだら贅言を費やして、自己も他者も韜晦させる。本書では、松浦の不誠実な韜晦の「やりかた」がよく自己解明されている。しかし一見頭の良さそうな松浦本人が自己韜晦のあまり、そのことに気づいていない。これでは松浦アヤヤ。
人生の途中で“彳(たたず)む”小説 ★★★★☆
 「ひたひたと」「花腐し」の二編が収められている。二編に共通して出てくる象徴的な言葉「彳(たたず)む」。松浦寿輝の小説は、人生の途中で“彳(たたず)む”小説である。「ひたひたと」で主人公はこんなふうに語る。「時間っていうのね、流れないんです。~残留している。人間の記憶なんていうものはね、その場に現にあるもののことなの。思い出じゃないんだ。イメージでもない」。つまり、過去も現在も「全部いちどきに今ここにいる」。日常の忙しさにかまけているとそれに気が付かない。でも、人生のある瞬間、過去への回路がいきなり開けることがあるものだ。ずっと親友だと思っていたあの男のことを実は出遭った時から憎んでいたこと、そしてあの男も自分のことを憎んでいたのだろうという確信。今はもうここには存在しない女が、想えば何時のときも自分を赦してくれていた、それなのに自分はいつもその女を傷つけていた、という悔恨。
 「ひたひたと」の“とまれみよ”、あるいは「花腐し」の“フリダシニモドル”。そんな人生を“彳(たたず)む”べき時のサインに人は果たして気付けるかどうか?松浦寿輝の小説、それ自体も、そんなサインのひとつのような気がする。
閉塞感 ★★★☆☆
読んでいて息苦しくなるような作品です。2編の作品が収められていますが、いずれも主人公は同じ場所をグルグルと回るばかりで、出口はどこにも見あたりません。
主人公の内奥もまた逡巡するばかりで、出口はありません。それ以前に出口を探してすらいないのです。この状況から「抜け出す」ことと「出て行く」ことは違うのでしょうか。救いを求めるのでなく、ただ僥倖を漠然と期待しているだけ。そこにあるのは途方もない閉塞感ばかりです。
文学の香り高いが ★★★★☆
芥川賞受賞の表題作は、若い頃に亡くした同棲していた女性の面影を長く引きずっている中年男が主人公だ。

経営するデザイン事務所が倒産寸前となり、莫大な借金を抱えて人生にも行き詰まろうとしている男は、大久保のマンションに居座る男の立ち退きのを迫るように借金主から頼まれる。

居座っている男は、幻覚を生むキノコを部屋で栽培している風変わりな男だが、立ち退きを迫るはずの主人公とこの部屋の主は妙に息投合してしまう。人生の下り坂にかかった二人の男、その男の栽培するキノコの幻覚に取り付かれた若い女性といった登場人物に作家は、自らの人生観を語らせる。

作者は詩人であり、本編は小説とはいうものの話の筋立てより、登場人物達の心象の描写がメインだ。共感を呼ぶ部分も多いものの!、いささか冗長でパターン化された心象風景という印象を受けてしまうのは何故だろうか。やはり、この手の日本的な文学としての小説は、難しいということだろうか。

表題は万葉集にある「卯の花、腐(くた)し」からとられたものだ。長雨の中で卯の花は腐っていくことを歌ったものだが、やはり生きながらにして腐っていくという感覚に対する陶酔はやはり詩人ならではのものだろう。

腐るという感覚の中に、この主人公の過去の風景が混濁していく。それは、同棲相手の女性とのささいな思い出であったり、幼い日の心象風景であったりと、正に詩人的な感覚で語られる。