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ケストナーの終戦日記―1945年、ベルリン最後の日 (福武文庫)

価格: ¥612
カテゴリ: 文庫
ブランド: 福武書店
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童話作家の本当の顔 ★★★★★
 ケストナーはドイツ敗戦直後にCIC(米陸軍情報部隊)から「尋問」を受けたと日記に書いている。アメリカ中尉は、彼がヒトラー政権から「好ましからぬ市民」として執筆停止命令を受けていながら、スイスやイギリスに出掛けた後で、身の危険も顧みずドイツに戻っていることがどうにも納得ゆかなかったらしい。ケストナーは、私がこの戦争は勝つと「信じていたら、わたしはたぶんスイスにとどまったでしょう」と答える。巧まざるユーモアだが、トーマス・マンを始め多数の芸術家や学者が亡命してゆくなかで、あえて国内に留まりつつ、ナチス批判の旗を降ろさなかったケストナーは、このユーモアのなかにただならぬ決意を含ませていたのだと感じる。
 本書は1945年2月7日から始まり同年8月2日で終わるドイツ降伏を挟む短い期間の日記で、15年経た1961年に出版された。彼は「まえがき」で、本書を世に出す代わりに一大長編小説を書くつもりだったと記している。だがそれは出来なかった。「ナチス千年の国家は大長編の材料を持っていない」と判ったからだという。その代わりに、当時の誤判断も含め、彼が渦中にあって見聞きしたそのままを受け取って貰うことを選んだのだろう。お陰で我々は、日本では『点子ちゃんとアントン』や『飛ぶ教室』の童話作家として知られるケストナーの、真正な貴族的品格(ケストナーのフルネーム中にvonの文字がある)を知ることが出来る。
 ケストナーはベルリンから離れることを禁じられていたのだが、爆撃の直前に、友人の映画監督の「撮影隊」に加わって合法的にチロル地方に疎開する。友人の弁がおもしろい。「ドイツの最後の勝利は確実だから、ドイツ映画は作られなければならない...ベルリン郊外の撮影所の製作の危険は日ごとに増大するから、野外撮影の材料を選ばなければならない」と。公式主義を逆手に取った論法に、彼も「宣伝省の高官どもは強く同意するよるほかなかっただろう」と笑う。疎開先では、軍の戦果放送の裏を読み、連合軍の侵攻状況を推し量る作家ならでは推理力を発揮するが、戦局は彼の予想通りに動く。
 ケストナーは強制収容所の存在を知っていたのであろうか。「収容所」の語は、5月15日に初めて現れる。政府高官が尋問を受けて「何も知らなかった」と述べたのを聞いて「あまりの厚かましさに口もきけな」い、と書いているから少しは知っていたと感じられる。8月2日になると、親しくなったアメリカ曹長が、収容者の一人を紹介する。彼の話を聞いた時の「嘔吐感は口には出せない」、「できごとは歴史ではなく、悪魔の賛美歌集に属する」と記す。
 ケストラーは敗戦になると前言を忘れたかのように振る舞う多くのドイツ人とともに、ヒトラーをのさばらせた西側政府に対する批判を忘れない。その一方でロシアが占領地域を拡げて行くのを恐れる。彼は、ナチスもソビエトも全体主義として同じと見ているのである。
 彼はまた人間の弱さをも記述する。「良心は180度まげることのできるものだ。ただいくらかは時間をかけなければならない。そしてそれからでも、逆もどりのしないともかぎらない」と書き、ドイツ人についても「全ての人、上にある権威に従うべし」という聖書の一節を、より言葉通りに受け取る民族だ、という。ここには作家の人間に対する冷厳な観察眼があり、ドイツ人のみならず日本人にも深く考えさせるものがある。
焼け残った「青い本」 ★★★★☆
ー1945年を忘れるなー

ケストナーは言う

「年代記は数を確証するが、人間を隠す。」

歴史という年代記に対峙した人間観察の記録。
1945年2月~8月 ベルリンからマイヤーホーヘンを経てバイエルンへ
彼は、いかにして終戦をむかえたか。

反ナチス作家として執筆を禁止されていた彼が、生命の危険を感じ、ベルリン脱出を決意する。

チロールの村マイヤーホーヘンへ映画撮影に向かう一行に、スタッフとして加えてもらったのだ。

架空の映画「失われた顔」を撮りに行く。
彼らも賭けにでたのだ。
ナチスが滅びるのが早いか、一行の企てが暴かれれるのが早いか。
連合軍の爆撃が続くドレスデンにいる両親の安否をきずかいながら、彼の鋭い眼差しは、さまざまな「人間」を描き出してゆく。

状況!は違うが、同じように年代記には記されないだろう記録がある。
敗戦後シベリアに抑留された詩人石原吉郎の言葉。

瀕死の人間は、肉体的に快復する方が、人間として快復するよりも早い。その快復期の時間的ズレが人を苦しめる。

第2次世界大戦という年代記の括りのなかで、「人間」を描き出した二人。

彼らの言葉は、木霊となって何度でも、私達の耳に届くだけの力強さを持っている。