『古今集』仮名序・人麻呂伝の誤り
★★★★☆
人麻呂に関する仮名序の記述が誤りだということを合理的に批判したのは、契沖である。その論拠は次のように要約される。
(1)人麻呂は持統・文武朝の人物にまちがいない。平城天皇の時代(「ならの御時」)は人麻呂より百年後である。
(2)人麻呂の名は正史『日本書紀』『続日本紀』などに記録されていない。記すに足りない低い身分であったからであろう。
(3)『万葉集』の題詞は『養老律令』の定めるところに従い、人の死については身分により次のような表記の書き分けをしている。
親王・三位以上の死:薨
四位・五位・皇親の死:卒
六位以下、庶人の死:死
契沖の説を継いで、真淵は次のように述べた。
(『古今集』仮名序は)人丸(人麻呂)も奈良のころまで在りし人とおもへるにや、云ふにも足らぬ事也。正三位と書けるはより所もなき事也。これ、必ず貫之の言にあらじ。(中略)おほよそ人まろの歌は万葉集にのみ見ゆる也(『古今和歌集打聴』)
現行の学説には、『古今集』仮名序にいう「正三位」を全否定せず、「正三位」「六位以下」を両立させようとするものもある。生存中、微官であった人麻呂に「正三位」が追補されたとする説明である。
仮名序のいぶかしい記述については、仮名序偽書説を登場させることになる。山田孝雄がその疑念を出したのは昭和11年のことであった。
著者は、仮名序の誤りが人麻呂に集中していることに不審を抱き、論を展開している(雅)
『古今和歌集』の盲点にして核心を抉った書
★★★★★
『絢爛たる暗号』(1978)で百人一首の緻密かつ大胆な読解を提示した織田正吉氏の古今集論である。学校で誰もが習う古今集だが、例えば「仮名序」には人麻呂についての意味不明でなおかつ間違いだらけの“説明”がわざわざ書き込まれているのは何故か? はたまた“六歌仙”として超有名人なのに一切の伝記が伝わっていない喜撰法師(しかも世に遺した歌はたった一首のみ)とは誰なのか? 等々推理小説にも似て、読み出したら止まらない面白さであった。古今集に新たな光を当てた小松英雄氏の『やまとうた』(1994)が用いた「仮名文の構文原理」という視点とは別の、「笑い・ユーモア」という織田氏独自の視点から浮かび上ってくる結論を是非読み味わっていただきたい。