大名屋敷を横目に見ながら、桜田門外の変を歩く
★★★★☆
安政7年(1860年)桜田門外で発生した、大老井伊直弼の襲撃事件。
登城する井伊大老は、どのコースをたどったのか、襲撃した水戸藩士と、
薩摩藩士はどのコースに散ったのか。
本書を読めば現代と安政の地図を重ね合わせながら思い描くことができる。
その年の3月3日は,雪の降る寒い日だった。
浪士たち18人は,桜田門から南へ1キロ,愛宕神社(現存)に集合、朝7時に外桜田門へ向かった。
18人ものテロリストの集団が、なぜ目立たなかったのか。当時は登城する大大名たちを武鑑というもので
紋所と照らし合わせて見物するのが流行で、たくさんの見物人(江戸見物)が集まっていた。
早朝到着した18人は,杵築藩上屋敷(警視庁)の塀沿いに潜み,のち,見物人に紛れたのである。
テロリストが待っているとは知らない大老一行は彦根藩上屋敷(憲政記念館)を出て,
500メートルほど行列して外桜田門(内桜田門=桔梗門もある)に向かった。
午前9時過ぎ『事件発生』
この騒ぎはすぐ杵築藩上屋敷に知れた。しかし関わりを恐れた杵築藩は一切無視を決め込んだ。
志を果たした浪士の一人は,大老の首を抱え,大名屋敷の立ち並ぶ中を抜け,近江三上藩(パレスホテル)に
駆け込んだ.自らも,深手を負っており,自刃して果てた。他の浪士たちも散り散りになった。
伊勢長島藩邸(三井ビル)羽州天童藩邸(三菱ビル)播磨龍野藩邸(東京海上日動ビル)
肥後熊本藩邸(日生ビル・丸の内ホテルなど)播磨姫路藩上屋敷(三井物産・三井生命ビル)
などであった。手負いの状態で走ったのだからすごいものである。
この本で話を知りながら,手元に大判の江戸地図があるとより良いだろう。
ところで、明治政府が、各大名から召し上げた土地は、きっとどさくさの中で、
金持ちや、目ざとい奴の手に渡ったんだろうなあ。