第一に、リベラルであることの偶然性を認めること(69頁)。地球上のあらゆる社会がリベラル・デモクラシーに直ちに転換すべきかという問題について、長谷部は否定的。対して、井上は、多くの留保をするだろうが、基本的には肯定するだろう(正義の普遍性)。
第二に、「決定されたから正しい」という調整問題状況の扱い。長谷部は、肯定的。対して、井上は、調整問題に対しても、制約があることを強調する(同『法という企て』8頁)。
第三に、偶然性を重視するゆえに、現状をふまえたうえで論が進められる。例えば、132頁のウォルドロンの議論が妥当しない状況は、日本の政治状況であろう。この点で、長谷部の議論はアメリカの公共選択論に還元できない。井上の議論の中にも、多くの現状記述があるが、それは、派生的役割である(ただし、井上の「一応の」という概念を考えれば単純ではないが)。
以上のような立場のためか、本書の記述は淡々としている(現実はこうだよという感じに)。そして、さりげない記述に重要な条件が書かれる。精読に要求される本であり、また、精読に値する本であろう。
著者は本書の中で、司法審査のリベラリズムによる基礎付けを行うが、いわゆる民主的政治過程論の扱いが完全に宙に浮いている(これは芦部以来の難点)。この点、松井理論は民主的政治過程論オンリーで単純明快(わかりやすければいいとも思わないが)。
松井理論の近時の共和主義への接近には危うさもあるから(相対主義のはずがなぜ卓越主義に??)、長谷部理論の一層の彫琢が期待されるところ。
ともあれ、法と道徳の閾界を堪能するにはこの本!!