饒舌な風雲児
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寺山は、「現代では俳人は祭りを放棄した文学者である。(中略)十七文字というスタイルを、彼らは日常語との峻別に用いず、むしろその断片として用いる」と定型を否定する。熱心に月に百句もつくっていたのに。作っていたのはもちろん花鳥風月を主題にしたものではない。「花売車どこへ押せども母貧し」
これを石田波郷が「菊車どこへ押せども母貧し」となおした。二人の資質の違いがはっきりする。「花売車」からは、後のうつつにあらぬ寺山の表現の萌芽がみられる。しかし、彼は同人誌をつくるな熱心な校生であった。俳句を表現手段として信じていた。真面目だった。しかし、母との関係は少年には過酷なものだったにちがいあるまい。そこから、芸術的手段で飛翔したのだ。寺山が寺山たる歴史がわかる本だ。
寺山修司の全貌
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解説によると寺山修司全集は出版社が二の足を踏んで頓挫したとか。それは多数のジャンルにわたって広汎な活躍をした著者だけにターゲットを絞りきれないという理由だとか。確か生前、寺山は職業は何と問われて、自分の職業は寺山修司だと答えていたと記憶した。自分自身も家族も虚構として提出し恥じることがなかった寺山だが、ただひとつ名前だけは本名で貫いた。何故だろう。寺山の創作活動は俳句から始まったわけだが、俳号という人工的な呼び名で呼び交わすのが習いの社会にあって寺山は寺山修司のままなのだ。他の作家が自己の内面を正直に見つめて発句していたのと対照的に当時から自分の虚構化に余念がなかった寺山は逆説的に呼び名だけは本名のままでいなければならなかったのだろう。ここに三島由紀夫と寺山修司との大きな違いがあるのだが、ここではそれについてあまり触れることはするまい。俳句のもうひとつの特徴は結社という独特な集団を作ること。そこは主宰者の独断場であり発句の模範となって入会者の指導に当たるというわけだ。当然、優れた作品というのは主宰者好みの作品ということになる。寺山は結社に入ることも自分で結成することもなく、逆に終始批判的な態度をとっていた。結社よりも同人を集めることに熱心であった。上下関係ではなく平行な関係としての組織が理想ということだが、そうした寺山が演劇を思考し天井桟敷という集団を築いていく。そこでの寺山は独裁者であったとする証言もある。寺山自身は、天井桟敷を集団ではなく「事件」だったと喝破している。さて本書は、寺山の創作の原点である俳句を取り上げて俳句に関する寺山の文章を網羅するという画期的な試みを実現したもので、ティーンエイジャーのちょっと気取った寺山君の発言から晩年の完成された寺山調までその文体の変遷、あるいは変化の無さを確認できるところが、実にユニークだ。俳句がどうのこうのというよりも寺山の全体像を俳句というレンズで見通すという試みだといってよい。