けれども、この本は芸術家自身が
芸術家として声をあげたものとして十分に評価できる。
つまり、自ら声をあげることが重要なのだというのを
実践しながら示したと思う。
その自ら声をあげる時に
必要なタームとして彼は「公共性」というのを選んだ。
時に、ぶれているように思える場面もあるが
こうやって自分にとって(つまり芸術家にとって)必要な
交渉のための言葉を提供したことに意義がある。
公共性は、効用と重なるように見えるが、違うものだろう。
彼は効用以前の、開かれた場として公共性を考えている。
そして、より重要なことはこの公共性が
需給関係の曖昧さとも関連していることで
(この点で概念はぶれているものの、しかし、)
効用とは積極的に違う概念となりえているのである。
効用は別に目的があり
それ自体は手段とされているようなものの属性であるが
その場合、需給関係は本来的に明確なものとなる。
しかし、芸術は鑑賞者が
積極的に制作者に転じる可能性を持っているし
それを支援することで需給関係は曖昧になる。
その時に芸術が持つ公共性は
市場から切り離された状態で論じられることになるだろう。
人は自然にそれを欲するのだということで。
書いてあることが有用かというと怪しいが
十分に刺激を与え、先に開かれている本だと思う。
しかし、芸術の本当の魅力を伝えることから認識を変えようとするよりも、芸術に「公共性」があるという前提での効用論に偏っているきらいがあるだろう。劇場建設や予算確保の必要性を行政を相手に理屈で訴えるよりも、市民一人一人が本当に芸術に魅力を感じる土壌を築くことが先決に思える。
アメリカは一般市民や企業が文化に寄付をする国だし、フランスは官僚自身が文化支援者である。これは、文化への「理解」というレベルの理屈の問題ではなく、支援者自ら芸術を「愛好」しているという状況であって、一朝一夕に出来上がったものではない。ほかのことよりも自分の好きな芸術を優先できる感覚は、個人のあり方とともに、社会の成り立ちそのものの違いでさえあるだろう。
「芸術とは何か」という美学的な根本問題が解決されていない現在の状況で、芸術の効用を公的に訴えても理論的裏付けに弱さがある。日本でいわゆる「芸術」が興隆しないのにはそれなりの理由もあって、どこかに一般市民のためらいがあるからだとは言えまいか。その市民感覚と素で向き合ってきたのは、これまでの日本では伝統芸能やポップカルチャーだった、という現実を真摯に受け止めることから次の段階が始まるのだと思う。