「死如之何」についての正反対の解釈
★★★★☆
「本書の最後にくる「自祭文」は自らへの挽歌で、陶淵明らしく生死を達観した言葉が連なる。しかし、その結末に突如、その達観を裏切るかのような詩句が置かれる。「人生実難 死如之何 嗚呼哀哉」。本書では、これを次のように訳する。「それにしても人間、生きることのなんと難しいことであろう。それを思えば、死なんて別にどういうことはないのだ。ああ、哀しいかな」。『陶淵明伝』の吉川幸次郎氏は、「死如之何」を「死は如何なるべき」と読み下し、「それは死とはどんなものか、という、死後の世界に対する懐疑の言葉」とする。ちなみに本書では、ここを読み下すに「死之れを如何せん」となる。この詩句について、両者まったく反対の意味に解釈するのである。
ズブの素人の私は、トップレベルの学者が反対の意味に解釈することを許容する漢文の難しさ、不思議さをつくづく思う。しかし、ここの解釈については、吉川氏の説に共感する。確かに「自祭文」の中で、詩人は、世俗を超越した自らの生き方を肯定して、本来の住み処である死に赴くことを従容として受け入れる。だが、それに矛盾する「人生実難 死如之何 嗚呼哀哉」。本書の説では、陶淵明の悟りが中途半端であるようにも、無理して強がっているようにも思えて嫌みでさえある。哲学による達観と哲学によっても払いのけられない不安、この矛盾を矛盾のままに表明したのが陶淵明の文学であるという吉川氏の論を肯いたい。