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さよなら、サイレント・ネイビー ――地下鉄に乗った同級生

価格: ¥1,680
カテゴリ: 単行本
ブランド: 集英社
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マインド・コントロールに関する科学的考察 ★★★★★
この本を読んで、マインド・コントロールというものが如何なるものであり、どうして地下鉄サリン事件の加害者である豊田亨氏が被害者でもあると言えるのか、良く分かった。特に面白かったのが、野口整体の活元なり、インド宗教等のメディテーション過程で発現するクンダリー二が、実は生物学的に説明できる現象であるにもかかわらず、現代社会ではキワモノ扱いされているため、オウムのような新宗教に悪用されがちだという点である。さらに恐怖を呼び起こすような映像を大量に見せられると脳の前頭葉が機能停止してしまうということも、この著作は素人にも分かる形で、科学的に説明しており、そういう観点から見た場合、多くを語らず、本書の出版後死刑の宣告を受けた豊田氏もまた、被害者であったと言えることが、きちんと説明されている。

ちなみに著者は、村上春樹の『アンダーグラウンド』『約束された場所』とこの作品の違いを強調するが、私は地下鉄サリン事件を、単にオウム関係者だけの問題ではなく、日本社会全体が持っている問題として観察・分析している、という点で共通していると思う。三冊とも名著である。
それを防ぐためにできること ★★★★☆
【さよなら、サイレント・ネイビー】それが起こったのは、なぜか?。防ぐために出来ること。

「凶悪犯罪」と呼ばれる事件が起きる。
逮捕された犯人について、マスコミが群がって報道する。
犯行の動機、犯人の生い立ち、被害者やその家族の声・・・。
しかし、しばらくすれば、どこかに忘れ去られ、また次の「凶悪犯罪」が注目を集める。

テレビのワイドショーでの取り上げ方に疑問を持つことはある。
しかし、「凶悪犯罪」そのものについて、深く考えることは少ない。
「犯人は裁かれて、罪を償うべきだ」と思うだけで、そこで終わってしまう。
そこから先を考えることは少ない。たとえば、このような「凶悪犯罪」が起こった背景や、似たような犯罪が二度と起きないようにすればどうすればいいのか?などと考えたことはなかった。

地下鉄サリン事件。
あの事件からもう10年以上経った。

「さよなら、サイレント・ネイビー」は、東京大学准教授である伊東乾氏が書いたノンフィクションである。伊東氏は、地下鉄サリン事件の実行犯である豊田亨氏と大学時代を共に過ごしていた。

「なぜ、あの事件は起こったのか?」
そして、
「似たような事件を二度と起こさないために、何ができるのか?」
この本のテーマは、この2つに置かれている。

前半は、冷静な視線で、「なぜ?」のテーマを追いかける。
後半は、加害者となってしまった友人と向き合い、2つ目のテーマについて答えを探っている。

地下鉄サリン事件に留まらず、一連のオウム事件、太平洋戦争、ルワンダの大量虐殺・・・。
人が人を殺す背景にあるものは何か。それを繰り返さないために、起きてしまったことから学び、二度と起きないようにするために何ができるのか?。

後半は、「戦争」に人生を左右された著者の父母についても触れている。
著者は、被害者にも加害者にも近いところにいた。
そして、人は、紙一重で被害者にも加害者にもなりうることを肌で感じているのだと思う。

最後の章に入ると、「なぜ、この本を書こうとしたのか?」「この本を通して、何を伝えたいのか?」が胸に迫ってきた。

重みのある一冊だった。

失敗学は必要。でもだからといって死刑を廃止すべきとはならない。 ★★☆☆☆
オウム真理教によって引きおこされた日本犯罪史上に残る「地下鉄サリン事件」。
その実行犯である豊田亨は東大出身であり、その彼とかつて同じゼミに所属し、実験の
パートナーでもあった筆者。あの日あの地下鉄日比谷線に乗った彼と「私」との間には、
どんな違いがあったのか、そしてどんな共通性があったのか。それを探るノンフィクション。

期待して読んだものの、書かれてあるのは「オウム事件」のみならず「ブルセラ少女」や
「モンスターマザー」など、さまざまな問題が社会で取り沙汰されたときにたびたび繰り
広げられるあの「彼らは我々だ」という論調。たしかに、どんな事件にしろそれが社会の
中で起きている以上、同じ社会につながれた我々に関係がないわけではない。
でもそれと我々をいきなり結びつけて考えるのは短絡的すぎるだろう。豊田は、いつまで
経っても独自の研究ができないという日本のアカデミズムのありかたに絶望した後に入信
したのかもしれない。しかし当たり前のことだが当時、彼以外の他の研究者はオウムに
なぞ入らずに、日夜頑張って論文を書いていたのである。たとえそれが、先人たちの教え
を「写経」するようなものであったとしても。
また本文中では、あまりの恐怖体験で脳に血流量が減ってものが考えられなくなるという
ことから、戦中の魚雷回天の話へとつながっていくのだが、どうもそこからの太平洋戦争
の話は、はたしてこの本の論旨の中でどういう役割を果たすのかがわからなかった。

筆者の言うとおり、失敗を詳細に分析して、二度とそれと同じ過ちを犯さないようにする
という「失敗学」は必要なのかも知れない。でもそれだからといって死刑を廃止するべき
ということにはならない。ここでの筆者はずるくて、94年のルワンダで起きた何十万人も
の犠牲者が出た大量虐殺の事後処理の例を出しているのだが、そんな大規模の事例を
あらゆるケースにまで当てはめることは、どう考えても無理があるのではないか。それでは、
これまでもにも何百件も同じような事件があったであろう強盗殺人の被告も、生かされる
べきと言うことなのだろうか。そこから「失敗」を学ぶために。

こういうとき少数派の側に立つ者は、多数派が煽られて極端な意見に走っているということ
を叫ぶ。しかし、時には極端な多数派の意見が正しいに決まっているというときもあるので
ある。そしてそれがまさにこのオウム事件だ。筆者は読者にも豊田にも中立な立場でものを
書こうとしていることは認めるが、このケースにおいては中立的立場でさえ、豊田贔屓にし
かならない。
なにしろ、ポリ袋にビニール傘を突き刺し、サリンを外界の空気に忍び込ませるという大量
殺戮の最終段階を執行したのが豊田亨であるということは、疑う余地なき事実なのであり、
こんな本を書いた筆者がもし遺族にぶん殴られたとしても、それはそれで致し方ないのかも
しれない。
倫理観のカケラもない醜悪な身贔屓 ★☆☆☆☆
日経NBonlineで「常識の源流探訪」と言うコラムを担当している著者の博識と独特の発想に関心を持っていた。その著者が大学時代の学友でオウムの実行犯の豊田について語ると言う事で興味を持って本書を手に取ったが、趣きはだいぶ異なっていた。

前半は誰もが知っているオウムの組織及び事件の概要を綴っているだけである。新しい知見や解釈がある訳でもない。サリン事件ゴッコをする始末である。村上春樹氏「アンダーグラウンド」に係って、豊田を「最大の被害者」でもある加害者と書いているのは、二人の関係を割り引いても常軌を逸している。この論を推し進めれば麻原も「被害者」になってしまうだろう。欠落しているのは村上氏の感覚ではなく、著者の"常識"だろう。事件の被害者及び遺族の方の気持ちを真剣に考えていないのではないか。裁判中の豊田の沈黙を著者は、「被害者や遺族の方を慮って」としているが、身贔屓過ぎる。そして、「たとえどんな境遇にあっても、豊田は俺には生涯の親友だよ。」と叫ぶのである。遺族の方の前で、同じセリフが言えるのだろうか ?

私は、著者と豊田との関係から、余人には推測できぬ豊田の個人的事情が浮かび挙がり、それと出家との係り、ひいてはオウムに対する新しい見解が語られるのかと期待した。ところが、豊田は単に研究が行き詰っただけ。後は、マインドコントロールで出家・実行犯をさせられた「無意識の加害者」と言うのではお粗末過ぎる。著者の倫理観に大きな疑問を抱かせる一作。
9章までで良かった ★★★☆☆
「創発」、「アフォーダンス」といった興味深い概念を駆使して、なぜ親友の豊田亨がサリン事件を実行してしまったかを著者が辿っていく過程はなかなか知的刺激を与えてくれる。しかしながら、著者自身が「語って説かず」の逸脱とエクスキューズしているように、「あとがき」はさながらアジテーションのようで、その変わり様に唖然としてしまった。気持ちは分かるが、著者の豊田に対する思いは9章までで十分だったのではないか、行き場のない思いを言語空間でシャッフルすることこそが文学なのではなかったかと。
また、これまで死刑の憲法上の問題には一切触れていないにもかかわらず、「憲法に照らして判決の正当性がゆるぎないものであるかという一点」が最高裁で問われているとはいささか唐突だったのではないか。