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清張さんと司馬さん (文春文庫)

価格: ¥580
カテゴリ: 文庫
ブランド: 文藝春秋
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生まれも育ちも東京・武蔵野 ★★★★☆
司馬遼太郎は東京の武蔵野なんて何もないところだというようなことをどこかで話していたのを覚えている。清張は九州から東京に移り住んだ基点が、この武蔵野だった。ほとんど子供の頃から武蔵野で暮らしている自分にとっては、清張に肩を持つことになる。武蔵野は司馬遼太郎の得意な分野よりも、何といっても清張の独壇場である考古学のカバーする時代により縁が深い。甲野勇もあるが、清張はどうあれ、むしろもっと古い縄文の宝庫が武蔵野だと考えてよい。何を隠そう自分も、この武蔵野の考古学を甲野勇のように応用して前に進んだ。他分野、民俗学との融合のことを言っている。清張がオランダの話をアムステルダム運河殺人事件で語っても、その原点はめぐりめぐって武蔵野にある。自分の場合だったら、武蔵野での遺跡調査経験がなんやかや言ってもフェルメール論に大きく影響を与えている。例えばここで出る環状列石なんて、要するにストーンヘンジだし、ピカデリーサーカスのサークル(円形祭祀場)跡地利用だったりする。その意味で考古学に国籍などない。そういったわけで、「宇宙に開かれた光の劇場」上野和男・著という本を読むことをお薦めする。清張とともに武蔵野・考古学の基点から見たフェルメールの実像にせまることができる。その基礎は同じ著者の「縄文人の能舞台」という本でもいかんなく発揮されている。
対照の妙 ★★★★☆
 著者の半藤一利は、松本清張と司馬遼太郎という2人の国民的作家に編集者と接した経験をもつ。そういう人の書くものがおもしろくないはずがない。ときに家族以上にその人のことを知っているのが、編集者というものだろう。なにを今さらと思う人がいるかもしれないが、こうして二人を比較されると、その違いもより明瞭になる。

 もとはNHK教育テレビの「人間講座」のテキストとして書かれたもので、さらに足りない部分を補注で書き足している。この補注は、引用だったり、打ち明け話だったり、感想だったりするのだが、むしろここが読みどころといってもいいほどおもしろい。

 司馬遼太郎は『ノモハン』を書くために生き証人に取材もし、資料も読み込んでいたが、結局、書くことを断念した。なぜか。

 小説のなかの登場人物にしたいと考え、取材もし、いくつもの秘話を聞き出していた須見新一郎という人物がいた。ところがその人から絶縁状を受け取る。「文芸春秋」誌上で元大本営参謀(作戦課)の瀬島龍三と対談したというのがその理由だった。この絶縁状のことについては、一度だけ、司馬さんの口から聞かされたという。半藤一利は補注のなかで、司馬遼太郎が『ノモハン』を書く意欲をなくしたのはこのためではないか、と推察している。(詳しくは同書で)。

「司馬さんは作品の上で、つねに颯爽とした人を愛し、付き合った。合理的な精神をもった先見性のある人たちに限りない友情を抱いたと思います。たいして清張さんは、策謀の多い奴、権力を悪用する奴、金の力にものを言わす奴、そんな悪人と付きあうことに何の痛痒も感じなかったんです。」

 編集者として間近に接してきた著者の愛情が、この本を後味のいいものにしている。本好きのなかには、司馬派と清張派があるような気がするが、この本を読むと、対照の妙で、もうひとりのほうにも興味がわいてくるだろう。