文学的、あまりに文学的
★★☆☆☆
レビューのタイトルの「文学的」というのは勿論、悪い意味である。学術書としてはどうかと思わざるを得ない過剰なレトリックが随所に見られる。典型的な一例を以下に引用する。
「貨幣経済に生きる人間は各種の断層の間に生きる人間であり、貨幣はこれらの断層をつなぐ媒体である。経済社会の地表と地層、既知の過去と未知の未来、固定性と流動性・・・・・・、これら様々の断層に人々は立ち、また貨幣はそこに位置している。同様の位置にある人と貨幣。だから人々は貨幣を用いるのだ。」
本書の元になった中公新書版が出た1989年当時のニューアカやポスト・モダンの影響があるのかも知れない。新たに巻末に書き加えられた「補論」ではいくらかマシな文体になっている。むしろこの「補論」の部分だけ読めば著者の大体の主張は分かる。
著者の立場は、「ケインズ擁護の立場からハイエクを叩く」というよりも、「ケインズ対ハイエク」という図式がまず間違いで、「ケインズはケインジアンにあらず、ハイエクはハイエキアンにあらず」で両者の立場は意外に近いのでは?というもの。その前提で現在の「新自由主義=市場原理主義」を叩いている。
ただ、著者の主張の可否を判断するにはより専門的な知識が必要であるし、本書は入門書的な公平な立場からの思想の概観といった記述が欠けているので、ケインズ、ハイエク両者の思想についてある程度の知識を持った読者にしか向かない。でも、多分ある程度の知識を持った読者は恐らく著者の主張には賛同しまいと予想される。
本書を読んで最大の収獲だったのは、
「彼が責めを負うのは、時代の書であるものを、『一般理論』と呼んだことである。」
という気の効いた、ハイエクによるケインズ評である。
ケインズを賛美するためにハイエクをこけおろした本
★☆☆☆☆
本書の構成は、ハイエクの理論の短所(といっても重箱の隅をつつくような揚げ足取りだが)を挙げ連ねてこけおろした後で、ケインズの理論の長所を賛美し、もってケインズが正しいとするもの。
ここにはハイエクの長所もケインズの短所も書かれていない。
経済学者というのであれば、自身が信奉する理論の短所を冷静に見極め、修正・発展させるか、異なる理論を統合するか、新たな理論を構築するか、すべきではないのか。
昔の理論をただ信奉するだけでは学者とはいえない。そんな学者は不要である。
両者の意外な一面
★★★★☆
経済学者が経済学者について述べた経済本だと思って読み始めたが、
どちらかというと哲学。ただ、意外な切り口で中々面白く読めた。
サブタイどおり、自由に対するスタンスから両者の違いをまとめあげる。
ケインズは個人の自由は必ず功利主義をもたらし、投機の増大によって
実体経済への弊害となるとし、一定の介入と規制を求めた。
一方のハイエクはあくまで個人の道徳的内面に期待し、古典的自由主義の姿勢を
維持し続ける。彼が求めるのは伝統や慣習に基づく慣習法的限界の提示にとどまり
場当たり的、裁量的な介入は否定する。
つまり、両者が求める自由は、それほど差が無いことになる。
違うのは現状に対する認識、そして人間そのものへの楽観的、悲観的な視点だろう。
まあ、それぞれの後継者たちはそこから大きく飛躍して対極に行ってしまったわけだが。
経済と倫理の関係。文庫化に伴って増補あり。
★★★★☆
ケインズとハイエクは同時代の経済学者として論敵だった(みたいです)。間宮氏も経済学者。でもここで議論されているのは「自由」。一体どう云う事でしょう。面白い切り口だなと思って読んでみると納得。経済は倫理抜きでは学問の対象にならない。「自由」観を必然的に伴う(この辺りは他にいい参考図書があったような気がします。見つけたら追補します)。
西欧諸国が近代化の仕上げをしていた時期、自由の意味が変容し始めた。後から見れば変容だけど、当事者にとって見れば自由が失われて行ってると感じていたはず。ここに間宮氏は二人の論敵の共通項を見つける。二人は失われつつあった自由に夫々どのように接したのか。
文庫化に伴って増補。
増補版です
★★★★★
今まで中公新書で発行されていた物を新たに書き足して発刊したものです。ケインズとハイエク。今までは相容れなかった関係だと思われていた両者に共通点が多いことを指摘しています。また、両者の自由に対するスタンスなどが非常に読みやすく、しかも極めて詳細に書かれていることには驚きです。今回は文庫版として新たに1章書き下ろしています。久しく、絶版になっていた良書が新書から文庫版へと代わりましたが、その分、読みやすく、手に取りやすくなったと思います。こういう経済学の良書を読んで広く経済学の素地を身につけるべきです。