割腹自殺の理論的正当化を図った「死=生の昂揚=存在の完成」の書
★★★☆☆
三島の作品は全て観念小説と呼ばれるが、本作は更に自らの割腹自殺の理論的正当化を図ったもの。三島が自身の貧弱な肉体にコンプレックスを持ち、ボディービルで身体を鍛えていた事は周知だが、本作はその鍛えられた肉体に対する信仰の書である。
本書の体裁は新興宗教のイニシエーションを思わせるもので、「肉体的苦痛に対する関心が深まってきた」、「いづれ存在を破壊せずにはおかぬほどに、存在の確証に飢えていたのである」、「存在が破壊され、その破壊される感覚によって、はじめて全的に存在が保障され....それは死だ」、と言った文言が連なる。「死=生の昂揚=存在の完成」との信念が強い。私には付いていけない感覚だが、三島を理解する上では役に立つのだろう。
ちなみに、三島は腹筋を中心に鍛えていたそうである。あの割腹自殺を思う時、適当な言葉が見つからない。
WHY星3?
★★★★☆
何故か世間的評価低ぃ低ぃっすが、俺的には、三島さん、おもしれぇ〜ぇぇぃ…スタイル確立した、貴重な一冊と思っとりまっす!他のレビュァ〜の方も仰られてるっすが、三島さんはマジヤバクラスの天才っすから、俺らYEAH!常人!には不可知的部分溢れMAX!な人っすから、はっきし言って表題作「太陽と鉄」で仰られていることの7割5分6厘も、MYプァ〜脳では、何度リピって読んでも理解ノッシング状態抜け出せねぇっす!でも微妙な内面っーか、感情を吐露る方法としては、批評でもエッセェ〜でも告白でもねぇ、いやそれらの要素ALL包括しまくりのこの文体っーかスタイルはサイコッ!に最適ってるんではないっしょうか?(そういや、亡くなる前に書かれた『蘭凌王』も、批評&告白&小説の融合った形っしたねぇ〜ぇぇぃ…)にしても、三島さんには、こういうスタイルの文章で、もっと色いろ書きまくって欲しかったっすねえ〜ぇぇぃ…カップリングの「私の遍歴時代」は、「太陽と鉄」に比べると従来型エッセェ〜にニァ〜な文体っすが、戦後の文壇&文学者への、他ではノット語られな貴重な資料的側面も含みまくりの興味深い一篇っす!三島さん、やっぱサイコサイコサイコッ!YEAH!!
割腹自殺、予告の書
★★★☆☆
この本が出版された2年後に三島由紀夫は割腹自殺を図る。この本は、あの事件が決して衝動的なものなどではなく、あらかじめ「三島由紀夫」という物語に織り込まれた終章であったことの、予告の書と言える。
この天才は、文学の限界をひとり勝手に感じていた。この人の実存は「言葉」ではなく「肉体」にあった。いや、「肉体」に求めようとした。あれだけ「言葉」を巧みに操り、「言葉」によって他の追従を許さない独自の世界観を構築したにもかかわらず、(いや、だからこそ)、常人には理解しがたい、陳腐にも思われる、単なる日常でしかない「肉体」に生き様、死に場所を求め、ひとり勝手に完結してしまった三島。
「言葉」の限界を語る説得力として「肉体」を過剰に評価する、その逆説的な発想こそが三島であり、そういった発想こそは「肉体」からではなく「言葉」から生み出したものである、というこれまた逆説。
「言葉」を最初に構築し、後追いで「肉体」を築いていった三島の、常人とは逆コースの思考がここではとうとうと語られている。この、小説でも随筆でも評論でもない、ただただ迷いなく延々と連なっていく文章に、読者は「そうじゃねえだろう三島さん、あんたは天才だから現実をかいかぶってる」って思いと、「わかる、わかりたいよ、わかるかもしれない」って気持ちが交錯する。少なくとも、あの当時に比べて、リアル(肉体)とバーチャル(言葉)が混濁し共に衰弱してしまっているご時世では、三島の気持ちがわかるって勘違いする常人も多いかもしれないよね。
「私の遍歴時代」収録
★★★★☆
「太陽と鉄」と「私の遍歴時代」の2つのエッセイを収録してる。
表題作「太陽と鉄」は、肉体と精神について、死について、詩的な文章で語る。思ったほど難解ではないが、形而上的で抽象的な独白なので、よほど三島氏に興味がないとつらい。
一方の「私の遍歴時代」は具体的な自叙伝で、読んで面白い。太宰治に「太宰さんの文学は嫌いなんです」と面と向かって言った話など。若い日の気負いがかなり率直に描かれる。
日光浴とバーベル
★★★☆☆
正確な美しい日本語で三島氏自身の
肉体改造の過程が精密に詩的に描かれています。
三島氏特有の形而上学的思考や秩序愛のようなものは
時として無味乾燥な色合いを帯びますが、往々にして
私たちの心を整えてくれるという性質があり、
本書も良質の哲学書や仏教書を読んだときの
澄み切った心境になります。スポーツというものに
常人的な興味のあまりないかたはこの本を読んで
スポーツを精神の面から眺めてみると興味を持たれるかもしれません。