仮面と顔
★★★★★
「他人の顔」は安部公房作品の中でも、個人的には印象的なものである。初めて書店で見かけた際には、主人公の人間への復讐という発言が気になっていたものだが、最近、久しぶりに本書を見かけ、購入する機会に恵まれた。本書の詳しい内容に関しては、他のレビューで十分になされているだろうから、簡潔に個人的な感想を記そうと思う。
本書は「他人の顔」というタイトルからも理解できるように、「顔」と「仮面」について扱ったものである。主人公は事故により、以前の顔を失い、包帯を巻いて生活していたが、自分と世界との通路を回復するため、精巧な仮面を作成し、自己回復を試みる。一般的な感覚からすると、我々とは関係の薄い、物語の中の出来事のように感じられるが、本書において扱われている主題は現実的だと感じられる。我々の頭蓋骨には、筋肉と薄い皮膚組織からなる顔が付着しているが、安部公房が本書で述べたように、素顔があくまでも、仮面のまがい物でしかないのであれば、我々の素顔自体が一つの「仮面」に過ぎないだろう。したがって、「仮面」と「顔」の間で繰り広げられる闘争も、我々が日々苦悩している日常そのものである。
また、本書において、この世界がすべて牢獄であり、牢を区切る「壁」がある限り、顔を喪失した主人公が、顔を持つ多数者に優越すると思うことが描かれているが、このことは、何を意味するだろうか。それは、顔の持つ個性の楔であり、そして、それが人類の持つ原罪の一つの表れではないかということである。我々は個性を持つ、そのために、性格規定がなされ、自身の能力に限界が設定されていると言えないか。名誉を求める人がいるが、そうでない人もいる。前者にとって不名誉は苦しみだが、後者にとっては無意味であるだろう。私には、この点にも、個性の限界性が示されていると思うのだが、みなさんはどう思われるだろうか。
本書は安部公房作品においても、興味深い作品の一つである。箱男や砂の女、さらには壁などの作品を読まれて、興味を抱いた方にはぜひ、読んで頂きたい作品である。
顔の持つ意味は何か?
★★★★☆
主人公は大手化学会社に勤務する研究員であるが、実験中に液体空気のボンベが爆発し、顔面にひどい凍傷を負って醜いケロイドが残る。顔面は赤い蛭の巣窟になってしまった。彼は結婚して8年になるが、その事故以来、妻との肉の営みはない。ある日、彼は、台所でコップを洗っている妻に背後から忍び寄り、肩に手をかけ、やおらスカートの中に手を差し込む。それは唐突で、今日セクハラと呼ばれる行為そのものだった。当時、夫婦間のセクハラという概念があったとは思えないが、彼の行為は、それが暗黙の同意でもない限り、当時でも正当化できるものではない。しかし、驚いた妻の強い拒否に遭い、以後、彼は妻の身体に触れることさえできなくなった。にもかかわらず、妻は黙々と家事をこなし、彼は出勤して、表面的には普通の夫婦のように振舞っていた。
当初、彼は顔の機能すなわち表情の重要性を否定しようとした。しかし、いくら否定しても、自分に対する他者の冷ややかな視線を否定しきれない。そして他者の視線を感じる自己の存在を否定できない。彼は妻とのよそよそしい関係、そして自分と他者とのよそよそしい関わりを、一挙に解決する方法すなわち失った顔を取り戻す妙案を思いつく。
常識的には整形手術だが、彼は自分の化学技術を応用し、生身の顔と区別できない仮面
を被ることで顔を取り戻せると考えた。そして仮面の製作にとりかかる。事故前の顔を復元しようとするのが普通だが、彼は以前の自分とは似ても似つかぬ「他人の顔」の仮面を作る。つまり、彼は以前の自分を棄て、赤の他人に成ろうとする。目的はSexを拒否した妻に復讐することである。仮面を被り妻を誘惑して情交を重ねることが復讐になる、と考えたのだ。しかし、これは自家撞着である。もし妻が仮面の男に易々と身体を許したとしたら、勝利するのは他人を装った仮面であり、本来の自分は妻を寝取られた憐れなコキュ、ということになる。
所詮人は顔なのか?
★★★★★
主人公は順風満帆な生活を送っていましたが
ある事故で顔が崩れてしまい、それがきっかけとなって人生が狂い、
性格が歪んでいきます。
主人公はもがき苦しみ、そして最後にある決断を下します。
人は顔でなく心、という言葉をよく聞きますが、
人と人とのつながりを持つ窓口のような役割の顔が崩れたとき、
社会の隅に追いやられまともな生活さえできなくなる。
たかが顔、されど顔。
人間社会の表面を覆っている、奇麗事で並べ立てた表面の中に隠れている
黒いものを突きつけられたような、そんな思いです。
文章は読みやすいものではありませんが、
阿部公房の最高傑作だと思います。
繰り返し読みたい本
★★★★★
同じ小説を繰り返し読みたくなる、その内の一冊がこの本だ。詩的な表現に何度も唸らされる。緻密なストーリーに引き込められる。「顔」といテーマに自分自身の顔と自分の周りの人間との顔、人間関係、顔のしたの素顔へと連想が膨らんでいく…。
現代の作家で読者を圧倒する作家がどれくらいいるだろう。自分を圧倒しない小説を読む気には私はならない。私のとっての小説の基準は、常に安部公房である。
素顔で勝負!――「他人の顔」、「人間失格」に、「宿屋めぐり」
★★★★★
町田康さんの長篇小説に「宿屋めぐり」がある。その作中で、主人公の鋤名彦名が、奇術師として、変顔術を披露する場面がある。この場面を読み、私は、本作「他人の顔」を思い出した。鋤名彦名は、旅の行く先々で、いざこざを起こし、しまいには指名手配されてしまう。そんなわけで、彼の顔は全国の人々が知るところとなる。そんな危機的状況下に、なぜか、彼は変顔術を身につけてしまう。
自分の素姓が露顕しないようにするためには、顔を変えてしまうのが、もっとも、効果的だ。偽名を用いるのも一つの手だが、人相書と照らし合わされたら最後、他人には化けおおせない。しかし待て、じゃあ、顔さえ変われば、人間は変わるのだろうか? うむ、そうか、顔が変われば、人間、中身も変われるのかもしれない。しかし待て、じゃあ、その変った人間は、いったい、何者なのだろうか。元の自分ではない、化けた他人でもない、とすれば、他人の顔をした、他人ではない、また別の誰か、ということだろうか。じゃあ、その別の誰かと、化けた他人とは、いったい、どうやって、区別したらよいのだろうか。傍目には、二人は同一人物ではないか。
寺山修司は、どこかで、月光仮面、あれは、汚い、正義をなすつもりならば、自分はどこの誰であると名乗り、仮面を剥ぎ、素顔を明かすべきだ、みたいなことを言っていた。「他人の顔」の主人公は、――そして、これは、私自身にも当てはまることなのだが――寺山の言のように、〈他人の顔〉なんかに期待をかけず、たとえ、それがケロイド痕の残る醜いものであっても、自分の素顔をさらけだすべきだったと私は思う。
太宰治「人間失格」の主人公、大庭葉蔵は、自画像を描く。彼は、その陰惨さにうちめされながらも、醜い自分に嫌悪を抱きながらも、これが自分の姿なのだ、と自分を受け容れている。しかし、その醜い部分はひた隠しに隠し続け、しまいには、「人間失格」者の烙印を押されてしまう。
結論、人は素顔を隠してはいけない。