晩年の安部氏の怪作、泣いてもいいじゃない
★★★★★
とうとう『密会』も三度読了。
安部氏を尊敬する読者のたわごとですが、許してください。
以下、ちょっとしたパラメーターとして。
一度目は、性的なうねりの強度に、鑑賞の力点。「娘」が愛しい。
二度目は、その構造、キャラの絡み合いに驚愕。この話、一切無駄がないじゃない。目頭があつくなる。
*しかし、上述の読み方は安部氏の世界を神格化してるだけだったりする。
三度目は、やっとそこから離れられる、こと多し。(個人差があると思いますが)
レビュー:あらためて、密度のある小説だとうなりました。三度目の読みは、もはやレビュー向きではないので、二度目の感想メインでいうと、この話で泣くひと、けっこういるはず。しかし「時間のモザイク」のなかに閉じ込められて、立ち上がれなくなってしまう人もいるかもしれません。晩年の作品ということもあり、よくも悪くも手だれた構成になってます。
この『密会』の小説空間では、もともと有限の空間であるはずの「病院」が「世界規模」にふくれあがって行く反面、主人公の精神世界は、どんどん「娘」とともに収縮していき、「ある地点」に限りなく、、、といった永遠に閉じようのない密度がある。これ以上盛り上がってしゃべっちゃうとネタばれの度が過ぎるので、うん、やめます。
*ネタばれされても読み尽くせる小説は、安部公房さんよりお求めください。
密会と併せて読むのは、『箱男』などおすすめです。メビウスの帯のような表裏一体のつながりがあるようなのです。
史上最強のゴミ小説!
★★★★★
文学史的な低評価なんか気にするな。「現代の人間の疎外を描いた」との作者の言葉なんて無視していい。
この小説を正当に評価したのは、自分と同じ匂いを感じとって絶賛した筒井康隆と、「あのアベまでもがこんなエロ小説を書くなんて日本は狂っている」と評した海外プレスだけだ。
これはめちゃくちゃで、ドタバタで、猥雑で、饒舌で、そしてクールな「読むマンガ」なんだ。
マトモな登場人物はひとりもいない。最初はマトモだった主人公も、小悪魔的フェロモンを放ちまくる幼女との出会いからおかしくなっていく。強いて言えば、少しはマシなのは副医院長の妻くらい。ほとんど登場機会がない彼女以外は全員完全に狂っている。
そして彼らは読者の生半可な感情移入をきっぱりと拒否する。「いるよなあ、こんなヤツ」そんなヤツはここには一切登場しない。極端で、エキセントリックで、ただ自己の欲望だけには忠実な登場人物たち。彼らは、読者の安易な予想を常に裏切りつづけながら終幕へと驀進する。
なのにこの面白さはなんなんだ?「なんなんだこれ?」と思いつつページをめくる手が止まらないのはなぜだ?
この小説の本当の主人公は、狂った登場人物たちでも、パースの歪んだ舞台設定でも、そしてセックスでもない。この小説の最初から最後まで、時には背景として、時には前景に踊り出つつ、常に支配しつづけるのは、「ゴミ(ガジェット)」なのだ。
打ち捨てられ無視されさげすまれ意識の外に押し出され、それでもいつのまにか侵蝕してくるもの。
前作『箱男』でも安部はゴミをサブテーマのひとつに選んだ。エッセー集『笑う月』では、ゴミ偏愛をこっそりと吐露した。『密会』はゴミをメインテーマに据えた小説なのだ。そこでは安部の看板である「不条理」さえもがゴミ(ガジェット)として、半ばセルフパロディとして取り扱われていることに、気付く読者もいるかもしれない。
エロい
★★★★★
直接的な、性的なシーンは殆どないのですが、というか文学なので
直接的なシーンなんて無いのですが、全体的にとにかくエロいです。
人間の業のようなものがむせ返るような湿度の中で描かれていて、
ずっとその息苦しさを保っている。
皮膚ではなくて、内側の粘膜を見せられているような気になる。
限りない優しさ
★★★★★
この小説は、「ぼく」が書き記したノートだ。ノートの中の出来事は、実際には起こらなかったことかもしれない。「ぼく」の妄想なのかもしれない。そもそも書き手である「ぼく」は、存在しないのかもしれない。確実なのは、ノートが3冊あるということだけだ。
安部は、小説が外の現実と対応することを否定する。アレゴリーを否定する。小説が元であって、現実はむしろ後でくると言う。そこで言われているのは、小説の自立性だが、ノートはその記録性故に、本質的に「現実の後でくる」。「ノート」であることを「小説」が選び取る時、「小説」は、「現実」の「後」であり、また同時に「現実」の「先」となる。つまり「小説」は「現実」と「等号」で結ばれる。ここで問われているのは、芸術としての言語表現のあり方だが、安部文学が現代性を持ち続けるのは、安部がそれに常に意識的だったからだろう。
この小説のきっかけとなったのは、ある新聞記事だ。中学教師が生徒と関係し自殺した。安部はそれを読んで、痛々しいものを感じた。私はそれを知った時、ストンとこの小説が分かったような気がした。この小説は限りない優しさで包まれている。その優しさの核に触れたような気がしたのだ。そしてその優しさは、「死に続ける」ことの中にあることも、初めて分かったような気がしたのだった。
ヘンリー・ミラーは、現代人に残された最後のオアシスは、セックスなのだと述べたが、そうミラーが言う時に意味したものが、この小説にはある、そう私は感じた。
墜落のイメージ
★★★★★
これは、人間社会のシンボルである「病院」を舞台にした小説である。
神話的構造、バロック的表現が特徴的であり、そのディテールは、他の追随を許さない。 此処に描かれている肥大した性的描写も全て、人間社会に普遍的に潜む、人間関係の構造の問題を照射する光に他ならない。
これを読むと、人間とは本来からして、「健康」という概念を放棄した「患者的存在」であり、「医者」とはそこから派生した概念であることに気付く。
そして、これは、副院長のスローガンである「良き医者は良き患者である」から確信へと変わる。
また、それは、彼の哲学、「人間の歴史は逆進化の歴史」であり、「怪物というのは偉大な弱者の化身」という箇所からも窺える。
読了後は、もはや、我々人類には「退院」という救いはないのだという絶望に襲われることになるだろう。
良くて「快癒をねがうよき患者」といったところだ。
まさに地獄のユートピアであり、ユートピアの地獄でもある。
また、別な観点から論ずれば、病院の最高権威者であり、なおかつ最高責任者でもある、〈神〉の化身とも言うべき院長の不在…。
まるで、神が、人間が言語という禁断の果実を手に入れたことで性に目覚めたが故に、この世界を見放したかのような印象を受ける。
後はただ、人間の根源的な欲望であるピンク色の性欲がそのまま剥き出しの状態で開かれる祭典が、待つのみである。
此処には、明らかに人間の原罪が、あまりにも強烈に描かれているとも言える。
だが、あきらめてはいけない。
安部の言うように「絶望も認識である以上、希望の一形式」なのである。
故に、「絶望する能力に希望を託す」しかないだろう。
それにしても、やはりと驚嘆せざるを得ないのは、安部の作品は、私たちの刻一刻と変わる意識や認識によって、如何ようにも読めるということである。
私にとっては、バイブルといっても過言ではない一冊だ。