跨がるは、アトラス社製病院ベッド
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「ぼく」に訪れた運命は、いや運命と言うにはあまりにも滑稽なのだが、脛に「かいわれ大根」が生えてきたというものだった。「ぼく」は、とてもナイーブな人間なのだろう。ナイーブさが、夢と現実を等価にし、「ぼく」は夢=現実から夢=現実へと彷徨う。
「ぼく」は、出世も名声も求めない人間らしい。唯物論者でもあるらしい。生理的な感覚しか信じない、というか、それしか信じられるものがないという意味で、唯物論者だ。そして常にロジカルにものごとを考える。他者との距離感覚も持っている。実際家でもあるのだ。「かいわれ大根」を食べながら、これは一つの閉じた生態系であり、その意味で自分は地球なのだと考える「ぼく」はインテリでもある。死に直面した時、それを受け入れる潔さも持っているし、場合によっては死の危険にたち向かう。無償の愛に、心を動かされ涙する感受性も持っている。
「ぼく」は、現代のドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャであり、ロシナンテならぬアトラス社製病院ベッドに跨がって、遍歴の旅をする。従者のサンチョ・パンサは、「切れの長い、いまにもこぼれ落ちそうな下がり目」の看護士だ。「ぼく」はドン・キホーテのようには夢は持っていない。「ぼく」が遍歴するのは、夢=現実であってみれば、当然だ。
「ぼく」がそれに向かって突進する「風車」は、なんだろうか?おそらくこの問いは馬鹿げている。「死」であることは、誰にだって明らかだからだ。しかし、「ぼく」の冒険談に暗さや悲愴さは、ない。「ぼく」は形而上学とは全く無縁で、生に意味なんて求めはしない。「死にたくないから、生きているのさ」。「ぼく」はあくまでも即物的である。「ぼく」の冒険談は、軽快でユーモアに満ちている。
安部公房が死について語っていることを思い出した。安部は魂を全く信じていなかった。「死んだら、それでお終い。なにも残らない。さっぱりしていて、清々しい」。
死に直面した自らの境遇を客観化して文学に昇華した傑作
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作者が死の床での想いを幻想とも寓話とも付かぬ形で綴った遺作。当然ながら作品には"死のイメージ"が付き纏うが、同時に死に対する反骨心も感じられ胸を打つ。主人公の脛に突然"かいわれ大根"が生えて来たと言うのが発端。
意志疎通が出来ない医師、得体の知れない採血魔の看護婦、点滴の袋・チューブ、点滴による膀胱への刺激、鎮まらぬ性欲、自動的に動き出すベッド、そのベッドと小便袋から離れられない主人公。全て作者の入院生活を反映しているかのようである。"かいわれ大根"は腫瘍の象徴か ? そして、この病気を治すには硫黄泉療法が良いと医者は言う。嫌でも"黄泉"を想起させる。その硫黄泉へ行くベッドでの旅も戯画的に描かれる。雌烏賊との格闘、父が残した荒唐無稽な本、その姿のまま買い物をする主人公、支払いに困っている主人公を救う件の看護婦。P.フロイドの「鬱」まで言及される。やがて主人公は地獄谷に辿り付くが、そこには子鬼が居て、ここは賽の河原だと言う。自虐的な設定と言え、死の恐怖・不安を自らの筆で吹き飛ばす意図が感じられる。死んだ母との再会の場に再び現れる件の看護婦。神出鬼没で笑わせるし、ドラキュラの話題も出る。そして、周辺に立ち並ぶ看板には、「六十五歳以上の自殺」、「日本尊厳死協会」、「日本安楽死クラブ」等の文字が。更に、看護婦の恋人で事故死をテーマにするアメリカ人の青年"キラー"も登場する。作者が"死"の矮小化を図っているのは明らかである。主人公は脳震盪のため別の病院に再入院するが、そこでの安楽死と尊厳死の問題は心を寒々とさせる。生きる事の意味を考えさせる挿話。最後に現れる"箱"はやはり柩か。P.フロイド「エコーズ」の神秘感が死を前にした時の心境なのか ?
ベッドに根付いた病人の幻想として読んでも楽しめるが、やはり作者の計算尽くの「死の克服」物語と見るべきであろう。自らの境遇を客観化して文学に昇華した傑作。
死のにおい
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「足にかいわれ大根がはえて、ベッドにくくりつけられて黄泉の国をさまよい歩く物語」。
あらすじをものすごく大雑把に述べれば、こんな感じになる。
なんとも荒唐無稽だが、実際に読めば感じるのは、常軌を逸したエキセントリックではない。
むしろ見ないふりをしている不安の種が育つような、不気味さがじわりと迫る。
遺作というだけあって、あちこちに死のにおいが撒き散らされている。
病気、病院、看護婦、ベッド、賽の河原…
この視野のせまさが、まるでベッドから起きられない病人が、夢うつつの妄想の中で生み出した物語という印象を受ける。
だんだん、背中にベッドの気配を感じ、「ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため」という賽の河原の積み歌が聞こえてくるような気がする。
安部公房氏、最後の長編
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ある日突然貝割れ大根が脛に生えた男。
訪れた病院で自走式ベッドに載せられ、生と死、夢と現実の境を彷徨う旅。
行き着くところは?
いつもながら超現実的。 荒唐無稽な場面が脈絡も無く次々と出てくるのにリアル感があり、主人公に感情移入してしまう。
安部さんにしてはノリが軽い感じがしました。
本当に惜しい作家を無くしたと思います。
ノートは閉じるか?
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巻末に付されたドナルド・キーンの解説にならない解説は、「文字通りの前衛文学」ということばで締めくくられる。難解な作品だ。
カンガルーノートとは新商品のアイデアを求められた主人公がでたらめに提案したものである。ノートにポケットがついている。その頃から、主人公の脛にカイワレ大根が生え、その治療のためにさまざまなところを夢とも現とも知れずに巡りまわる。
小説の最後の最後に突如現れる、主人公の死を伝える新聞記事は安部文学における、小説世界から現実へと急激に私たちを引き戻すスイッチだ。このスイッチが有効に働くためには、読者の主人公に対する感情移入が極限にまで進み、作品世界にある種の共感を持てるようにならなければならない。この作品は読者の感情移入を基本的に拒絶している。だが、終わりの部分に来て、読者に感情移入を強いる。
例えば「オタスケオタスケオタスケヨ」の歌であり、「人さらい」の歌である。不安という形で、私たちの心をざわつかせる。そして、新聞記事に導く直前に、文章は簡潔に恐怖を突きつける。
「箱はただのダンボールではなかった。硬化プラスチックなみの粘りと堅さ。正面にのぞき穴があった。郵便受けほどの切り穴。除いてみた。僕の後姿が見えた。その僕ものぞき穴から向こうを覗いている。ひどく脅えているようだ。僕も負けずに脅えていた。恐かった」
恐らくは、覗き穴のあるダンボールとは、カンガルーノートのポケットの中に入ったカンガルーノートのポケットの中にカンガルーノートのポケットの中に……という循環を引き起こす無限の入れ子構造を象徴している。ここに至って、この作品の語り自体が、作品自体に織り込まれることになる。カンガルーノートは、向こうの僕の物語として、あるいはこちらの僕の物語として、無限に折りたたまれ開かれる。
結局、カンガルーノートは閉じられることは無い。