海辺のわるすんぼ・・・
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1960年前後の、海辺のいたずらっこたちの物語。
大人からの受け売りを交えた会話が、わかっているのかいないのか、けっこういい加減にしゃべっているのに妙に的を得ていて、噴き出しながら読みました。小学生のころは、けっこうちょっとした不思議なことが入るすきまがあって、この物語のこの感じがすごく好きでした。
「あれーじょお」ってことばっかりして、オゴかれて。
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これは、芦原さんが書きたくてしかたなかった物語なんだろうなと思いながら
読んでいくと、はたしてあとがきにもそうあった。
自分の根っこの部分を、こんなふうに大切に抱えていられるのはうらやましい限りだ。
芦原さん一流のやり方で、物語のとば口に引っぱって行かれることに、まずにやりとする。
版画の装丁のイラストからも子どもらのわくわくした感じが伝わってくる。
マサコ、トモイチ、アキテル、フミノリ(アキテルの弟)、それにぼくの5人の子どもが
まきおこす日々のこと。ぼくが4年生から6年生になるまでの、遊んで遊んで遊びたおす、
そのエピソードのいろいろ。
遊ぶのは、海辺の松林。なにしろ、「歩き始めてから中学校に入るまでの時間の
三分の一は、この松林や海岸で過ごしたような気がする。」というのである。
大阪万博の11年前に開かれたぼくらの町の博覧会にまつわる話を皮切りに
それはもう、元気でおませで、きかん気で、子どもらしい小狡さもはったりも、
みんな気持ちにすとんと落ちてくる。
大人は、のんびりしていながらもまだ近所の子らを叱りたおすだけの連帯感と
皆が共通のしつけの物差しを持っていた時代だ。遊びでも行儀でも
度を超えたときには、容赦なく大人に張り倒されるそんな時代だ。
いかがわしい大人も、ダメダメな大人もいて、みんな子どもらは見ている。
背伸びして大人の世界をのぞき、成長するのだ。
方言がまた効果的に、人間くささや時代背景を写しとっていて好ましかった。
かつて少年の日に海辺で博覧会があったことを活写
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現実から幻想へ、そのようなメルヘンチックな物語展開はしない。ただ、現在から過去へ微妙なタイミングで遡行させる表現様式はお手のものである。ただ我が少年時代を回顧するのではなく、それでは凡百の自分史になる。ストーリーテラーなるこの作家は、「まえがき」から趣向を凝らして「妙な」感じで過去に転じる手法が巧い。
書名タイトルは第一章「海辺の博覧会」から取っている。海辺とは、(モデルは観音寺松原である)松林と一般化している。この広場によそからおっさんたちが来て小屋を建て始める。尋ねると「博覧会のじゃが」と言う。市制五周年記念行事らしい。ぼくらと兄ちゃんは毎日工事を眺めて、その完成を楽しみにしていた。
8月12日に大博覧会は始まった。テッセンくぐって舞台の裏の方から入るすべを知る。漫画映画と手品はいくら見てもあきなかった。「ただ入り」がばれそうなものだが、誰も何も言わなかった。法科大学生の兄ちゃんは四十円払った。「君らと違って僕には権利がないからね」と笑って答えた。兄ちゃんは東京に帰る。博覧会も終わり取り壊しが始まる。おっさんたちに怒鳴られながらも、その様子を全部見ていたのだった。
海辺に住む少年たちが、突然博覧会を身近に体験して、生き生きとたくしく生きる姿が明るくユーモラスな口調で語られている。