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意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

価格: ¥1,156
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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井筒哲学の序説 ★★★★★
岩波文庫と云う、比較的安価な文庫に収録されているにも係わらず、これは井筒俊彦の主著の一つであろう。それは、彼の主要論文からすれば比較的読み易く、且つ、一般の読者を想定している。井筒のライフワークである主著と目されている、イスラム神秘主義、ユダヤ教神秘主義カバラ論、ゾハール等は、初学者が、何の武器も持たず挑戦しても、恐らく、歯が立たないに違いない。ゆえに、井筒の理解を超える知見に到達する事は困難であろう。我々、一般人は、この様な神秘哲学とは、異なる次元の生活者であり、多かれ少なかれ、ごく表層的な次元での生活者であるからだ。では、何故、我々物好きな人間は、この様な、非日常的次元の哲学を読もうとするのであろうか?そこには、人間存在の真の世界像に付いて、深遠な知見を覗いて見たいという欲求からであろう。十数ヶ国語を操ったという、井筒俊彦の、驚異的な言語力と読解力が、縦横無尽に展開されていて、その知識と創見が、現代哲学の巨匠達の省察と、重なる部分を見い出すのは爽快だ。この地球上の言語は、ある意味ではすべてローカルな言語であり、どこの言葉が最も優れている、などと言うことは無い。あらゆる言語は、人間の認識精神の発露であり、その根源的力から生まれた状況の産物なのである。

ここには、中観・唯識の哲学からヴァガバット・ギータ、プロティノスのネオプラトニズムの論拠、プラトンギリシャ哲学とスコラ思想、易経から禅哲学、イスラム思想、ユダヤ神秘主義、カバラとゾハール、説一切有部派から大乗起信論、クサのニコライからトマス・ケンピス、フランツ・ブレンターノからエドムント・フッサール、サルトル、メルロー・ポンティからステファーヌ・マラルメまで、殆ど書き切れない位の存在論と認識の探求者達が考察される。存在の深遠に付いて、井筒が興味を懐いた分野の、多くの巨匠が取り上げられているのだ。大乗起信論の「真如」がフッサールの「エポケー」、「現象学的還元」の概念と似ていると云う、指摘は面白い。投稿者が、特に注目したのは、井筒の思想の中核に在る、意識の「深層と表層」と言う概念であり、人間の内面に、深く秘匿された構造世界である。心や意識の「構造的見方」、マナ識、阿頼耶識という、日常意識を支える根源的な意識の構造である。この本でも展開しているユングの「元型」の概念は、禅の根本である、インド・ヨーガ哲学との類似性にも興味がある。

本書では、芭蕉や、道元、宣長、なども、その思想が分析される。井筒の展開する概念の中で、投稿者は、未だに、よく理解できない概念が言語と意識に於ける、「音韻分節」・「意味分節」などの本質と、その可能性である。本書を買ったのは、30年近くなる昔だ、だが、論述が広範な知識を前提とし、その深い創造的な理解を要請している為に、簡単には、深奥にある内容を把握し切れない点が多い。若い人々が、この哲学書に挑戦し、単なる、日常の次元にのみ生きる事なく、いのちの中に秘められた、深い実相に気付き、そこに到達できる事を希望する。この世界は、目の前に広がるだけでは無く、無意識・潜在意識と云う、自我を超えた、内面の宇宙にも広がっているのだから。私達のいのちとは、何かに縁って、与えらえた命であり、そして、いつかは、その与えらえた源へ帰って行く、いのちの秘密は、そこで開示される。

井筒俊彦は、膨大な東洋哲学構築の、著作計画の端緒で急死した、就寝中の脳出血であるという。それ故に、我々は彼の思意の中に、計画として有った、「東洋哲学の根幹に通底する諸神秘思想の共時的構造化」を、読む事は永遠に出来なく成った。それは誠に残念であるが、井筒自身は、大いなる命の源に、帰る事に従ったに違いない。この世界は深い、本の価値を確信すると共に、井筒俊彦の霊の冥福を祈りたい。
壮大な東洋的「知」の体系構築を目指した重厚な思索の書 ★★★★★
西洋の対語として「東洋」があるとしたら、そこにはにはどのような哲学的、思弁的共通性があるのか。明瞭な形では存在しえなくても、東洋哲学の諸伝統の蓄積の上に新しい哲学を生み出さなければならない。

こんな壮大な問題意識から著者は膨大な知識を駆使し、著者独自の「共時的構造化」の方法によってイスラーム、ギシリア、儒教、仏教の系譜を縦横に跋渉して知の体系化を目指す。スコラ哲学、プラトン主義、新プラトン主義、ユング、フッサールの現象学など西洋の系譜もしっかりと押さえながら、記述は明瞭かつ分かりやすい。

そこかしこに溢れ出る術語概念に対する深い理解と分かりやすい説明は、なるほど、30カ国語に熟達した語学の広範な知識に裏づけられている。圧巻なのは、密教(esoteric religion)に関する奥深い理解が、本書全体を通底していることだ。凡庸な学者は、顕・密の顕を極端に重視することはあれども、密に対する見解があまりにも表層的なことがままある。

顕・密にわたる認識についての明快な枠組み設定がp214の意識の構造モデルで示されたくらいから、東洋思想に共時的に存在する哲学は、まさに「密」に集約されていることに読者は次第に気づいてゆく。
卒論のテーマにした思い出の書 ★★★★★
この本と出会ったのは今から15年くらい前のことでした。大学の哲学科で東洋哲学を勉強していた僕は、知人の紹介でこの本を知りました。

東洋哲学といえば訓詁学とか経学みたいな、講釈や説教めいたものを想像しがちだったので、この本を読んだ時の衝撃はすごかったです。当時流行していた、深層心理学などで使われる無意識の構造や、言語の発生源みたいな話が出てきて、急に東洋哲学が斬新なものに見えてきました。夢中になって何度も繰り返し読んだことを覚えています。

井筒さんにはもう少し長生きしてほしかったです。東洋哲学の共時的構造化というものが、いかなる姿をしているのかその輪郭だけでも見てみたかったです。本書ではほんのさわりというか、共時的構造化序論というものであることが述べられていますが、序論ですらこの深みをもつ思索に畏敬の念を禁じえません。日本人にも、すばらしい哲学者が存在したことを知っただけでも良かったと思います。
「神とは『宇宙のありかた』である」 ★★★★★
井筒氏は「神とは宇宙のありかたである」と言っているように思える。そうならばいくつかのことが説明できる。
1 神はなぜ全知全能であるのか
 「すべてが入っているもの」こそ、宇宙の別称である。宇宙内のすべてのモノやコトの存在の「ありかた」を神とすれば、神は他者としてそれらの外に立つことはない。時間の地平を越えても宇宙のあり方は変化し得ないから、定義上、神は全知全能でしかあり得ない。
2 なぜ天にいるか
信仰者にとって神の住処は「天」以外にない。天には星ぼしが輝いており、そこには一定の物理法則が明らかに感じられる。「法則」の支配こそ神の第一の能力であるからには、その身に最も近いと思える天界こそ住処と考えるのは自然である。
わずかな過ちは「法則」をセムならではの支配・被支配の概念で考えたこと。どんな「ありかた」も許容される宇宙内において、法則は創り・創られるものではないだろう。法則は、世界の分節のしかたとして「在る」ものだろう。理論物理学が発見間近としている宇宙方程式すら宇宙の「ありかた」の「すべて」を記述するものではない。絶対無分節者としての宇宙を描こうとする宇宙方程式は、表現として分節的記述以外にありえず、いったん分析的に記述されればそれは分節を繰り返すだけであり、無分節状態の再現は定義として不可能になる。記述そのものが永遠に終わらない、という不確定性原理の矛盾があらわれてしまう。
3「宇宙のありかた」は運命論ではない
「宇宙のありかた」の考え方は、すべてがあらかじめ絶対者によってコードされていることの単なる発現であるとする、諦観に満ちた運命論ではない。すべての生命は、輻湊する存在連関の糸の結節点としてのみ存在するが、結節点としての生命は、たまたまそこに密度が高まっているアミノ酸分子の、ゆるい「よどみ」でしかない。しかも、それらアミノ酸は、「拡散」による内部のエントロピー増大を回避すべく、一方向的な時間軸上で非可逆的に入れ替わっているのだから、存在連関の網はあらかじめ織られようがない。
これが形而上学の書です。 ★★★★★
著者のエゴになっている哲学書が多い中、この書は「意識・本質」を客観的でコンパクトな構造的思索で展開されており、読みやすくかつ説得力があります。哲学や宗教に興味がある程度の方でも十分に理解でき、それでいて得れる知識は膨大で壮大です。

また、現代の日本人に忘れがちな「日本人の本質」を呼び起こす、拒絶反応のおきない日本的観念論であるとも思えます。哲学的または形而上学的思索(じぶんとは何?せかいって何?神?)を深めたい!と思う上で最初に手に取る書。ということで間違いありません。

是非お読み下さい。