俗すぎる普遍性
★★★★★
60歳までに三七一四二人の女性と戯れるという稀代の粋人、世之助の人生を描いた江戸時代の古典をコミカライズ。非常に面白い出来。
斯様な女好きでもまったく嫌悪感を感じさせないのは、「男は女を幸せにするのが務め」という矜持を持っていることと、色事なしでは生きられない人間のサガに妙に感心させられるからだろう。
これを読むと、江戸時代の遊郭も現代のキャバクラも、基本はまったくかわらないことがよくわかる。
色事という俗を極めることで、逆説的に時代を超えた普遍性を獲得した傑作だ。
井原西鶴と近松門左衛門
★★★★★
高校時代、原文と訳文を対照しながら苦労して読み終えて以来の再読。
井原西鶴と近松門左衛門どちらかを夏休み中に読めと言われて、
選んだのがさいかくである。なんか暗そうな心中物より、
好色物の方が高校生にとっては魅力であった。
マンガでの再読だが、いろんなことを思い出す、そのきっかけなるには充分な描写である。
日本津々浦々の色町を回り好色の限りを尽くした世之介が伊豆の港から船出するシーンが
ぼくは大好きだったが、それもきちんと描かれていた。
船の名は「好色丸(よしいろまる)」
船の造作は、吹抜に吉野太夫の腰巻 大綱はおんなの髪の縒ったもの。
積荷は、強精剤の地黄丸五十壺,女喜丹二十箱などなど。
さらに床の責具として肥後ずいき。水牛,錫,皮の張型総数六千八百。
こうして出帆する世之介の言葉は
「譬えば腎虚してそこの土となるべき事(中略)それこそ願いの道なれ」
「たとえやりすぎて病気になってもやな,それが本望やんけ」
カッコいいなあ,と,18歳のぼくは思ったのである。
ところで西鶴は,上方で主に活躍したが,本は,江戸にも出回った。
江戸の板木は,作・井原西鶴 挿絵・菱川師宣という豪華版のエロ本であった。
原文を読まずとも十分楽しめる
★★★★★
暉峻康隆氏校注・訳の『好色一代男』と併読しながら本書を読んだ。暉峻氏の訳が逐語訳だとするなら、吉行氏の訳は翻訳で1つの完結した作品である。吉行淳之介と「好色一代男」という取り合わせから、吉行流に脚色した翻案もしくは創作という先入観があったのだが、これは見事に覆された。あくまで原文のストーリーと描写に忠実であった。その上で一語一語にいたるすべてが訳者の血肉を通して現代語に移し替えられたという印象である。テンポが良くて平明、明晰、清潔な訳文になって、原文を読まずとも十分に楽しめるのではないかと思った。しかし、原文を理解し味わうためには、学者の訳が適しているだろう。
巻末に100頁を越える「訳者覚え書き」がつき、訳業の苦労がたっぷり語られる。一種の注も兼ねて言葉の解釈や異説に触れ、作品論、世之介観も展開される。本文読み込みから作品成立の特殊事情が作家らしい創造力をもって推理されたり、カサノバと世之介との比較など興味深い。
こういう話だったのか。
★★★★★
Hな話ではあるが、それほどいやらしいタッチでかかれた漫画ではないから、素直に読める。
井原西鶴は歴史でならった立派な人物、と思っていたが、意外と、さばけた人なんだなあ。
性具まで出てくるとは・・・。
このシリーズでは、つぎは、近松門左衛門をしてほしい。素晴らしい、と言われているにも関わらず、ほとんどの人がよくは知らないだろうから。
スケベの道を究める話
★★★★☆
井原西鶴のこの話。
題名だけは知っていた。
読み進めると、ここまで女の尻を追いかけた男の話なんだと「へー」と思った。
ただの女狂いである。
好色とは、女が好きという意味。
一代男とは、子供がいない、跡継ぎがいないという男のことを言うらしい。
コミカルなタッチで描かれていて、さっと読み進めることができた。
まさに、まんがなら読めたの典型的な本である。