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日本の教育を考える (岩波新書)

価格: ¥819
カテゴリ: 新書
ブランド: 岩波書店
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真に教育されねばならないのは誰か ★★★☆☆
 宇沢氏曰く、教育とはこれすなわち「すべての人間的営為について、一人一人の子どもが
もっているインネイトinnateな知識、能力と後天的に獲得してきた知識、能力をできるだけ
大事にして、それを育てることによって、知的、身体的、感性的発達をうながし、一人の
社会的人間として大きく成長することをたすけようとするもの」である。

 氏の教育論は概ねこの定義によって知られよう。しかし、表題からして単に教育論を期待
して手に取ると、やや裏切られることがあるかもしれない。本書において語られるテーマは
例えば、デューイを中心としたアメリカのリベラリズム教育論、学生時代、教授生活から得た
経験談――というよりも、極めてプライヴェートな思い出語り――、数学への思い、戦前から
戦後に至る文部省主導の教育制度批判、極めて簡潔に触れられる理想の教育スタイル等々。

 その名が私の気づく限り一度として現れなかったことはいささか疑問なのだが、氏の主張は
かのジャン‐ジャック・ルソーの著書『人間不平等起源論』や『エミール』における教育論に
非常に重なるところが大きい。そして、彼の暗黙裡に導く最大の教訓はすなわち、自己愛の
世界は果たされぬユートピア=どこにもない場所として彼岸へと押しやられる他ない、という
こと。
 宇沢氏の主張をあざ笑うつもりもないが、まさにユートピアと呼ばざるを得ないこともまた
事実。そして一点事実として、種々の犯罪統計が示すに、この国の若年層は明らかに善良で
あるということ、まさにユートピア的なまでに。むしろ教育を受け、正されねばならないのは
明らかに、概ね40歳以上に分岐点を持ち、世代間既得権益にぶら下がり続ける恥知らず、人間
未満の家畜連中。腐ったミカンを処理せぬままに放置すれば、すべては絵に描いた餅に堕する
ことは必至なのだから。
もっと突っ込め ★★★★☆
本書劈頭で,「悪態」をつく「かわいい子供たち」が「現行の抑圧的,差別的な学校教育のもとで,一人一人が持っているゆたかな才能,すぐれた能力の蕾を痛めつけられ,あるいはプライドや誇りを傷つけられて悲しい思いをしています」なんて書いて,ほぼこれと同じ台詞をエピローグでも反復してるくらいだから絶対にリベラル。間違いなくリベラル。

宇沢ファンには堪らない垂涎の新書のはず。本書目次_だけ_を見たら,天才宇沢の教育論が展開されていると感じられるが,じつは「東大48年三羽烏」の一人=石川経夫の急逝で空いた穴を宇沢が大慌てで埋めてしまってできた新書。したがって,悲しいが宇沢の雑文集と堕している。第3部(約70頁,本書の3分の1)は自分史とイチャモンに対する反論など。“日本の教育”を論評したものではなく,“自分の教育”を記述したもの。第1部の一部は,自分が編集に参加した算数の教科書の自画自賛。期待して購入した読者をこれだけ裏切ってるんだから,じゅうぶん“悲しい”。さっさと絶版にして,書き直して欲しい。日本でも多くの読者が信頼を置いている実態に宇沢はにあまりに無自覚だ。永六輔『大往生』以来,最近の岩波新書は軽薄短小路線を直走っているが,大塚真一と井上一夫(本書編集員)は世界水準の大研究者を前に怯み過ぎだ。岩波新書はもっと崇高な目標を追求してほしい。もっと突っ込め。(1012字)
宇沢氏の過去物語 ★★★☆☆
教育政策を論じた本としてではなく、宇沢氏の経験を述べた本として面白くよめた。シカゴ大学の教授でありながら東大の助教授に転任することを引き受けるところなど「こんな人間がいるのか?」と思ってしまった。著者は、相当変わり者であるようだ、しかし年齢を思うと信じられないほど誠実でもあるのだ。また数学の重要性を述べるところで「決して焦らず一歩一歩確実に進んでゆくと、気がついた時には信じられないほど高いところまで来ていて、素晴らしい展望が開けます。」と述べているが、もっと早くに(中学生くらいで)この言葉を聞きたかった。そういう昔の面白い話が満載でほくそ笑みながら読んだ。教育論としては面白いが、しかし教育政策批判としては理想主義的で実行は困難だろう。それでもすがすがしい気分になれる本である。
新自由主義に基づく近代経済学への痛烈な批判の書 ★★★★☆
 日本の教育が現在置かれている危機的状況について、エッセイ形式で綴った本です。

 著者である宇沢氏は日本を代表する経済学者で、本の前半では彼自身の学生時代から現代に至るまでの思想的遍歴を綴っていき、シカゴ大学経済学部教授職を振り出しに、ケインズ学派の学者として出発し、母校の東京大学へと戻り、水俣病患者の悲惨な状況を目の当たりにして思想的変質を遂げ、その原体験から、今流行の近代経済学に対して、その仮定の非現実さ、そして内容の反社会性、及び反倫理性を糾弾して行く過程は、とっても小気味よく読み飛ばす事が出来ました。

 そして、日本でもアメリカでも、ジョン・デューイの目指したリベラリズムの教育が、結果としてはサミュエル・ボールズとハーバーと・ギンダスが指!するように、結局は法人資本主義的な抑圧的体系としての教育体制に堕落していったことを指摘し、そのような法人資本主義のヒエラルティックな支配から教育を護持する為に、「公園都市」構想や、大学を教養学部に一本集中して、専門課程は大学院に移管していこうと言う提言などは、なるほどそれも尤もな考えであると考えるのは私だけでしょうか?