金沢で広告会社に勤務する男の死体が発見された。彼の死に疑問を感じた妻(久我美子)は、単身捜査に乗り込むのだが……。野村芳太郎監督が『張込み』に続けて松本清張原作に挑戦したミステリ映画の名作。事件が明るみになるにつれて醸し出されていくのは、男女の愛憎と、それゆえの女の悲劇であり、久我美子をはじめ高千穂ひずる、有馬稲子といった3人の女優たちの名演が見事にそれを体現してくれている。ラスト、寒風吹きすさぶ能登金剛の断崖シーンは、いつまでも哀しみの叙情とその余韻を残してくれる。現在と過去が巧みに交錯する秀逸な脚色を担当したのは『張込み』の橋本忍と、当時野村監督の助監督だった山田洋次。なお両者は後に、野村監督による清張ミステリ映画の大傑作『砂の器』の脚色も手がけることになる。(増當竜也)
面白いですが。
★★★★☆
まあ、面白いです。推理ドラマの面白さがあって、能登の風情が確かにあります。私は北陸に住んでいますが、確かに、こんな感じです。
有馬稲子が最後に出てきて、全部カッサラッていきます。彼女ががあまりにも魅力的なので「こんな可愛い女をポイと捨てていく男の気持ちが理解できない!私だったら彼女と正式に結婚して東京につれていく」となります。こうして、せっかくの種明かしも私には感情的に納得できないものになったのでした。
それに、男が有馬稲子と同棲するのが原作では高浜のあたりで、ギリギリ金沢までの通勤圏内かもしれませんが、映画では富来になっていて、もはや通勤圏内を越えます。昔だったら片道3時間を超えたんじゃないでしょうか。往復7時間以上。これだと有馬稲子の家で寝る時間が3〜4時間にしかならないのでは?
「ゼロの焦点」という謎のタイトルですが、原作を読んでいるとその意味がわかったような気がしました。原作では、何度も仮説を立てるのですが、どれもどこかボンヤリしているのです。ところが、最後にある仮説を入れると、全てがピッタリとピントが合うのです。「あ、これがゼロの焦点だ」と思いました。
占領下の日本で、生きた女性たちのその後の辛すぎる物語。
★★★★★
敗戦後、日本の女たちはかように生きざるをえなかった。
立川は米軍の基地。アメリカ兵は日本国を占領した。トップはマッカーサー元帥。
アメリカ兵達は敗戦日本の女性を買った。
敗戦日本の女たちの悲劇。
立川基地に、『パンパン』と呼ばれ、生き抜いた。
いつの日にか、売春禁止法ができ、彼女たちは、過去を隠して生きていかねばならない。
彼女は、どう生きていくのか。
この作品は、そう生きざるを得なかった女性たちのつらい話しである。
この作品は敗戦後の女性たちの生きぬき、かつその後の厳しい行き方をつたえている。原作、脚本、監督、俳優、すべて最高!あの時代の最高の人たちが集まった。
敗戦後の日本を描く作品としては、真剣にみないといけない。
昭和36年という時代を語る秀作
★★★★☆
松本清張が自分自身でいい出来といっている作品。
確かに、『点と線』と比べるとご都合主義的な時間のトリックもなく、ぬぐい去れない過去に動機を求めているあたりはシンプルでわかりやすい。
また、三人の女優陣がそれぞれの持ち味を十分に発揮している。3人ともほとんど年齢が同じ。久我美子が一つ上で、高千穂と有馬は同じ年。この映画の撮影の時は、久我29歳、高千穂と有馬は28歳。女性としても大変油の乗り切ったころの映画といえる。
脚本は橋本忍。監督は野村芳太郎というコンビ。二人とも黒沢明監督と接点を持つから、細かな心理描写は黒沢監督のエッセンスをいい意味でもらっている感じがした。
南原宏治と、久我良子のキスシーンがこの映画の唯一の濡れ場だったが、この場面は異様に生活感があって生々しくてよかった。湯船に浸かっている久我の雰囲気も当時のお風呂のスタイルがわかってよかった。
また、有馬さんと高千穂さん。二人は同じ宝塚の出身。若干系統は違うもののせりふ回しの正確さとか、表情の起伏の表現とか共通する点があり観ていて楽しかった。同じパンパンの仲間同士で、その素性を互いに明かす場面はなかなかのもの。ちなみに、高千穂さんは、この映画の演技が認められてブルーリボン賞・助演女優賞をもらっている。
有馬さんは個人的に以前お世話になっていることもあり、その美しかった昔の様子=どこか石田えりさんに似てた=が観れてよかった。
映画の内容的には、2枚の写真の扱いと、鵜原(南原)と久子(有馬)がどのように再会し関係が深まったのかを詰めてほしかったような気もしたが、全体的にはとてもいい仕上がりになっている。
郷愁を誘う日本の風景
★★★☆☆
野村 芳太郎は、松本 清張の小説をもとにして、数々の作品を監督しているが、これはそのひとつである。
今日の感覚で鑑賞すれば、サスペンス映画としては常套的なものであり、その意味では、必ずしも歴史的な傑作といえるものではないのかもしれない。
個人的には、そうしたことよりも、むしろ、この半世紀のあいだに生起した変化に強烈な印象をあたえられた。
この作品は、1960年代前半の作品であるが、そこには郷愁を誘う日本の風景が見事にとらえられている。
そして、そうした映像を鑑賞しながら、人間にとり、日常、目にする風景というのが、知らず知らずのあいだに、その感性と思想を規定する実に大きな影響をもつものであるということにあらためて気付かされた。
この半世紀の経済成長をとおして獲得したもの、そして、そのなかで喪失したもの――この作品をたのしみながら、同時に、思わず、そんなことについて想いを馳せてしまった。
それにしても、この時代の作品に出演する俳優の存在感というのは、実にすばらしいものがある。
年齢にかかわらず、大人の風格を自然に漂わせているのである。
これは何なのだろう……?
今、国内においては、殆どの映画俳優が思春期の真只中にいるような白痴的な軽薄さと浅薄さをふりまき、われわれ鑑賞者を白けさせるのとは雲泥の違いである。
果たして同じ民族なのだろうかとさえ思う。
「ゼロの焦点」という理解不能なタイトル
★★★★★
阿刀田高は「松本清張あらかると」という清張論の中で、なんで「ゼロの焦点」などというわかりにくいタイトルをつけるのかわからないとこぼしている。なぜ阿刀田が理解に苦労するのかの理由は、第一には清張の広範な考古学に関する知識の体系を、さほど知らないからだろう。それから、絵に関することもあるが、なによりこれらの知識が清張においては自然科学と深く結びついていることが指摘される。文学も例外でない。万葉のヒスイなどの例もある。このへんは芥川龍之介より優れているくらいだ。だからと言って芥川が清張より劣っていると言うつもりはない。「ゼロの焦点」とは、光に関する光学とか物理学一般に関する清張の直観(知識)が、考古学と合体した上でつけたタイトルなのだ。その証拠はこの本「宇宙に開かれた光の劇場」上野和男・著を読むとわかる。あの17世紀のオランダの画家・フェルメールが、この本の中で阿刀田高の疑問に答えている。