インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

文化と精読―新しい文学入門

価格: ¥3,990
カテゴリ: 単行本
ブランド: 名古屋大学出版会
Amazon.co.jpで確認
これは後半に対する評価です ★★★★☆
この本は二部に分かれている。後半は、文学的な興味と歴史的関心が緩く交差するいくつかのトピックを扱っており、必ずしも全部が興味を引くわけではないだろうが(もちろん読み手次第だ)、どれも十分深く追求されていて、知見を広げてくれる。読んで損はない。私はこちらだけお勧めしたい。それが公平な意見だと思う。
 前半は最近の文学批評に現れた尖鋭な意見の概括となっている。私はこちらは評価しない。誤解のないよう言っておくが、これは辛い点をつけるということだけではなく、採点する資格が自分にあるかどうかわからないという意味を含んでいる。だからこの本の評価は後半のみに対するものである。
 それでも一応書いておくべきだと思う。評価しないというのは二つの意味がある。第一に、評価するのは失礼であるという気持ちがある。これは英米文学の研究者という、極めて狭いサークル内に向けての発言であろうと思われる。著者のいらだちであるとか、「入門」と銘打っておきながら、とても一般人の知識には含まれてはいないと思われる幾人かの名前が解説もなしに現れる点などは、そういう風に理解しない限り戸惑わされるだけである。だとすると、内部事情を全く知らない人間が、憶測で口を出しても仕方がないという気がする(あなたが学生ならもちろん読むべきです)。
 第二に、それでもいい点をつけたくないという気持ちにさせられる部分がある。著者の立場が、絶対的な正義に近いものになっている点だ。
 たとえばここで紹介されている最新の理論のいくつかは、私には空論だと思われる。しかしそういうと、保守的な権威主義者ということになってしまうのだろう。もしくは、知識の足りないバカ者ということになるのだろう。著者は、自分と同じ知識を共有しない人間には文学を語る資格がないといい、知識を共有するが意見は異なる人間には権威主義だといってしまえる。こういう立場には反論のしようがないのである。
 これは著者が擁護したがっているらしいポストモダン全般に共通する特質である。フーコーやデリダは反権力である。だから彼らを批判するのは自覚のない権威主義者か、彼らの精緻な理論を理解する能力がないかなのである。
 本当にそうだろうか。たとえば哲学における現前性の神話を打ち破ったことがデリダの功績だと著者は言う。しかし、実は現前性が欠けていることこそが近代以降の哲学の特徴なのである。それは世界を論理学的構造によって理解するからで、論理学的であるとは、ある論理を全く等価の別の論理によっていいかえることができるということが積極的な原理なのである。つまりそれは現前性がないということであって、もしデリダが言うようにそれを現前性の無限の反復と解釈できるのだとすると、伝統的西洋哲学の転覆どころか、その完全な勝利を意味するのだ。デリダは実は独りよがりのパフォーマンスを見せたにすぎない。フッサールが現前性を哲学に取り入れようとしたことは稀有な例外なのであり、それを攻撃することが(理論的には正しいとしても)どういう意味を持つのかを、デリダもこの本の著者も全く理解していないのである。つまり哲学的な知識も理解力も不足しているのである。
 いや、これは、一応言ってみたまでだ。しかし、客観的で冷静な意見ではなかろうか。そして私はこれに対する反論がどんなものになるのかも十分に予想できてしまうのである。そしておそらくはそれに対して反論することはできないのである。なぜならそれは絶対的な正義だから。
 私はこういうことすべてに対して実にむなしい思いに駆られる。
文学の凄さと恐ろしさ ★★★★★
 文学なるものにそれまで抱いていたイメージは、「文学作品を読んではわけの分からぬことに感動し、所詮フィクションでしかないものを真面目な顔をして論じたて、最後には文学的感受性とか何かとわめき出す社会的効用ゼロ」(p. 122)の勉強というものだった。世間の多くの人も、おそらくはこの考え方にどこかで同調するかもしれない。しかしこの本を読んだ後では、この考え方は完全に打ち砕かれてしまう。フェミニズム、ディコンストラクションなど、知全般に関わるさまざまの問題を文学研究は含むのだから。そして次のような思いがこみ上げて来るはずだ。
 文学は人間のすべてに関わるものであり、文学の研究とは知全般を相手にしなくてはならない、途方もない試みである。