五味川純平の大河小説を原作に、巨匠・山本薩夫監督が映画化した戦争超大作の完結篇。昭和12年12月の南京大虐殺をはじめ、日本の中国侵略戦争が激化していく中、伍代家の次女・順子(吉永小百合)と秘密裡に結婚した耕平(山本圭)は出兵し、そこで日本軍の非道な実態を目の当たりにしながらも、身をもってあがない続ける。一方、伍代家の次男・俊介は戦場の第一線に身を投じ、やがてノモンハンでソ連軍と熾烈な戦いを繰り広げることになる。戦争とは、人間とは何であるのかを問う一大傑作シリーズ、ここに堂々の完結。当初は4部作として構想されながらも諸所の事情で3部にて完結となったが、今回は旧ソ連軍の全面協力の下、ノモンハン事件が日本映画界未曾有のスペクタクル・シーンとして構築されており、その中で運命に巻き込まれていく人間の尊厳が綴られていく。(増當竜也)
もうつくることのできない名作
★★★★★
第二部がやや緩慢なのにくらべて、第三部は戦争映画らしいつくりである。
「アカ」である標耕平(山本圭)が内務班でリンチをうける場面はすさまじい。
いま、これだけの場面をつくる度胸のある制作者はもういないだろう。
左寄りの反戦の台詞を拾いあげればきりがない。
しかし、いまの軽薄な反戦映画とちがうのは、たとえば滝沢修が冷静な資本家を演じているところではないだろうか。
滝沢修が演じる新興財閥の当主は、軍人とは一線をひき、冷静に事業をすすめる実業家として描かれている。
いま、この映画をつくりなおせば、資本家は高級軍人と一緒に酒池肉林におぼれるように描かれるのでは。
治安維持法がらみで逮捕された経歴のある役者が、冷静な資本家を演じる。
この映画のすごみは、こういうところにある気がする。
製作当時は、すごくもなんともなかったのかもしれない。
すごいと思ってしまうのは、戦後生まれの先入観なのかもしれない。
この映画を左翼映画と評するのは簡単である。
けれども、いまの目でみると、みずからの手をよごさないサヨクに対する批判に聞こえる台詞もたくさんあるのだ。
制作年を考えると、学生による生ぬるい反体制運動に対する皮肉がこめられている気がするが、穿ちすぎだろうか。
あれこれ思うと、日本の戦争映画は、昭和初期に生きていた人たちによってのみ、製作されうる気がしてくる。
日本的な組織病理は今もなお
★★★★★
第三部を初めて観たとき、強烈な記憶となって残ったの映画のラストで「軍律」の名の下にノモンハン敗戦の責任を問われ「詰め腹」=自決を強要される現場指揮官たちの姿であった。彼らの胸中、無念さはいかばかりであったことか。また、撤退具申を辻正信に拒絶され、軍刀と短銃のみで万歳突撃を敢行その生を終えた柘植進太郎(高橋英樹)の姿もまた肺腑を抉る。
戦争とは、人間とは、組織とは、様々な問いかけを観る者に迫る正に「大河映画」の名に値する不朽の大作もここに完結。未完の第四部、何としても観たかったと思うのは私だけだろうか。
プロパガンダ映画がそんなに名画か?
★★★☆☆
原作は太平洋戦争終了まで続く大河小説だが、日活が資金不足でノモンハン事変をもって打ち切りにしてしまったため、何とも消化不良の作品になっている。話題のノモンハン事変も実際はこんなにソ連軍の一方的な戦いであったわけではなく、撮影に協力してくれたソ連に全面的に媚を売った形だ。途中打ち切りになった際に日活の労働組合が最後まで作らせてくれと社に懇願したというが、これは「共産党万歳」なストーリーを見ればなるほどと納得できる。戦後日本を縛り続けている自虐史観を正当化する内容で、日本軍部と財閥こそが諸悪の根源とするステレオタイプで陳腐な設定が名作と言えるのか?当時の日本映画にしては大がかりな仕掛けに惑わされているだけのように思える。
完結
★★★★☆
本来は、東京裁判まで描く予定だったのに、日活の資金難でノモンハン事件で終わるというのはまず残念と言わざるを得ない。監督はその後も続編の製作を示唆していたが、出演者の老齢化で最後は断念したようだ。
しかし、よく観るとノモンハンの敗走は戦争末期の様相と重なっているように思う。まず、あたら兵隊が死んでいく姿、そして軍律という魔物が人間を死に追いやるところなどである。ラストで戦死者を荼毘にふすところは、山本監督が終戦時に大陸で遭遇した体験が基になっているという。
ソ連軍進攻のシーンは「ヨーロッパの解放」のシーンをうまく転用している。突然カラーの調子が変わるところがそうである。また、このシーンは後年の「不毛地帯」で、今度は1945年の満州へのソ連の侵入のシーンに転用されている。
ここで配役にも注目したいのは、脇役としてロマン・ポルノで活躍していた女優(片桐夕子、二条朱実、絵沢萌子、山科ユリ)が出ている点だ。それまでの日活で主役を張っていた浅丘ルリ子、高橋英樹、吉永小百合と彼女らが同じ映画に出ているのはこの会社の状態を何か象徴しているようで興味深い。
日本映画の良心と総力を結集して贈る完結の炎
★★★★★
とは、公開当時のコピーですが、こんな力のこもった言葉で今日の日本映画は作れるのだろうかと思うほど、当時の意気込みを感じるものです。一部〜二部含めその豪華なキャッスティングには確かに当時の総力と言えるほどのバラエティーを感じ見ごたえがあります。三部の中心は、徴兵免除されていた五代家の次男俊介。目に余る反戦思想から遂に召集され、よりによって第23師団隷下部隊に配属、ノモンハン事件に遭遇する経緯が、この物語を完結へと一気に突き進んでいきます。前線の幕舎で辻参謀らに意見具申する柘植少佐が、「作戦の事は我々参謀に任せて、前線指揮官として任務をまっとうしてもらいたい」と一喝されるシーンは、まさしく今後数多の前線で同じく繰り返される象徴的な言葉です。客観的判断を軽視し、単に積極的な精神主義が横行していく様を、柘植少佐は五代俊介に「絵に描いた餅が本物に摩り替わる」と言って警告します。そして最後に拳銃と軍刀で戦車へ突撃するシーンはあまりにあっけないものです。戦闘を生き残った俊介が、凱旋して帰ってくる時に、俊介を追って満州までやって来た娼婦苫から一杯の水をもらい飲み干す時に、目を白目にして飲み尽くします。そして何事も無かった様に歩いていくシーンは、生きて戻れた喜びより、そのむなしさがよく現れています。ラストの軍人勅諭を読み上げながら集団火葬されるシーンは、まさにこの映画の完結の炎であることに気付くものです。