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梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)

価格: ¥950
カテゴリ: 文庫
ブランド: 筑摩書房
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ほとんど無名のうちに夭折しながらも後年、三島由紀夫をして「デカダンスの詩と古典の端正との結合、熱つぽい額と冷たい檸檬との絶妙な取り合はせであつて、その肉感的な理知の結晶ともいふべき作品は、いつまでも新鮮さを保ち、おそらく現代の粗雑な小説の中に置いたら、その新しさと高貴によつて、ほかの現代文学を忽ち古ぼけた情けないものに見せるであらう」と云わしめた梶井基次郎の全集。難解な語句には注を付し、すべての作品はもとよりの習作・遺稿までを網羅した全一巻。
芥川−梶井−太宰 ★★★★★
 「過古」について書こう。この作品で思い浮かべるのは、二人の作家の二つの作品だ。一人は芥川龍之介で、「蜃気楼」。もう一人は太宰治で、「雪の夜の話」。
 「蜃気楼」も、「過古」も、暗闇の中に光る、かすかな光りが印象に残る話だ。「蜃気楼」の世界は、私が生きている世界に似ている。これはあくまで〈たとえばなし〉である。私はいつも、真っ暗闇の中にいる。人に何か聞かれる。私は何か答えようとして、言葉(それは、単語だ)を捜す。暗いから、マッチに火をともす。このとき、もし、風が吹く(つまり、何か外からの刺激を受ける、たとえば、電話が鳴る、とかする)と、私は困る。ただでさえ、私は言葉を見つけるのが遅いのである。そのうえ、何か外から刺激があったりしようものなら、マッチの火は消える。したがって、私が捜していた言葉が何なのか、私には見えなくなってしまう。暗闇のなかでは、一本のマッチの光さえ、救いとなるのだ。
 「雪の夜の話」には、難破した若い水夫の網膜に、燈台守一家の団欒の光景が写っていた、という話が出てくる。「過古」には、燃え尽きたマッチの火が、消えてもなお、しばらく主人公の目に残像として残った、という一節がある。芥川、梶井、太宰はマッチと目とを介してつながっているのである。してみると三人は、かすかな光を守り続けた作家たち、と言えるのかもしれない。
名文の成れの果て ★☆☆☆☆
 この本の致命的な欠点として文章を全て現代仮名遣いに変えてしまった事が上げられる。

 確かにそのほうが小さい子供などでも読めるようになり万人向けするという意味ではいいのかもしれないが、その所為で作品が持つ雰囲気が損なわれ、語り継がれるべき名文はただの文字の羅列へと落ちぶれ見る陰も無い無残な姿をさらしてしまっている。
 いったい何の権利があって編集者はこんな醜悪な真似を過去の名作に対して行ったのか問い詰めたい。これは紛れも無い故人への冒涜である。

 せめてタイトルには判りやすく「現代仮名遣い版」と銘打って欲しかった。このようなものを「全集」などというのはあまりにも無礼である。
自分のそれと、 ★★★☆☆
何だか、これでもかって位に感傷が似てる気がした。
だけど、全般的に変調が無いから、続けて読むには難い。

「桜の樹の下には」が有名ですね。
梶井作品だという認識は薄いかも知れないけれど、フレーズは非常に有名でしょう。
つか、それが読みたくて買った。
鮮烈な発見と驚き、生命の輝き。 ★★★★★
梶井基次郎の感性って、この文庫全集を読んでみて、習作「太郎と街」が原点なんじゃないかなって思いました。感性のアンテナをピンと立てて、楽しげに街を歩く青年。それはのちに「檸檬」の屈折、「冬の日」の悲愴、「冬の蝿」の諧謔へとアンテナの方向を変えながら続いていく。
梶井の晩年29歳の時に書かれた「闇の絵巻」は、病気が悪化し、数百メートルの道のりを歩くのもやっとなのに、鮮烈な発見、驚きに満ちています。その根底には、不思議な生命の明るさがあるように思います。
桜の樹の下には・・・ ★★★★☆
”桜の樹の下に屍体が埋まっている”というフレーズは
小説やマンガにこれでもかと引用されていますが
その部分だけが先に入っていた私は、初めてこの本を読んだ時
自分の想像していたものが大分違っていた事を知りました。
これは桜の花の美しさを最大級に讃える表現だったのですね。

著者は結核を患い若くして亡くなられています。
その為か、この全集に収められている作品は完成してないものも多いです。
また作品に登場する主人公達はみな胸を患っているので
この人は自分の作品の主人公にそのまま自分を投影しているのだろうと思っていたのですが、
「あとがき」に梶井基次郎について書かれている宇野千代さんの作品の抜粋部分が載っていて
それによると”梶井基次郎という人は自己を語らず、感情も出さず、
手紙にも自分の思う事を書いてきた事はなかった”という事で
その対照的な印象が不思議に思えました。