しかしこの長編小説は全く飽きさせることなく読者をぐいぐいと引っ張り続けます。それは登場人物が魅力的だから?いえいえ、登場人物たちはあきれるほど身勝手だったり、さかしかったりして、他者の範となるような者はひとりとして現れません。それにもかかわらずこの小説が魅力的なのは、その登場人物ひとりひとりの人間くささに読者である私自身の様々な側面を重ねて読むことができるからです。
それはウッディ・アレンの映画の魅力にも似ているような気がします。彼は自身の作品の中で、どうしようもなくだらしなく、だからこそ人間的な人々を執拗なまでに繰り返し描いてきました。決して観客の多くが共感できるわけではないのに、なぜかやるせないほど人間的な人々の姿を倦むことなく綴り続ける。
この「楡家の人びと」の尽きせぬ魅力とはまさにそういうところにあるのだと思います。
終章を読み終えてページを閉じるにあたって、この物語にはもう本当に続きがないのかと実に惜しい気持ちにとらわれたのは私だけではなかったようです。巻末に作家・辻邦夫が綴っている解説にも同様の記述を見つけ、わが意を得たりという思いをしました。
また、自分の過去のことを書き、人をどこかへ連れて行くことにかけて北杜夫に勝る作家はそうはいないと思われる。少なくとも私は知らない。そして彼の語る過去は、自分のことを語りながらも、一面的な、単なる愚痴のような、あるいは自己満足にあふれる物にならず、普遍的な、共通の懐かしさを人々に与える物となるのである。彼にかかれば30年は永遠の昔ではない。すぐ前だ。そうだ、昨日だ。そして実際に、我々にとってそれは永遠の昔ではないはずではないか?
彼は歴史を、本当に脈打っている物、流れとしてはっきりと我々の前に現出させてくれる。そして最後のページまでその流れの深さ、美しさに魅了されていた読者たちは、突如、私たちもその物語の登場人物であったことに気がつく。ページが少なくなるにつれて、終わるな終わるなと念じながら読んでいた物語が終わった瞬間、自分たちがその物語の世界にいることに気がつくのだ。
現実のことが書いてある本などうんざりと思っているファンタジー小説の愛好家の方よ(もちろんそう思っていないファンタジー小説愛好家の方もいるであろうし、そもそもファンタジー小説とは何であろうか?便宜上こう呼ぶのみである)、ここに、現実のことを書きながらかくもいきいきとした本がある。そしてその本は、現実を変えてくれるのですよ。本の中に入って、その事によって世界が変えられる本の一つなのですよ、これは。