インターネットデパート - 取扱い商品数1000万点以上の通販サイト。送料無料商品も多数あります。

楡家の人びと (下巻) (新潮文庫)

価格: ¥1
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
Amazon.co.jpで確認
ある日本の一族の歴史 ★★★★★
一代の傑物、基一郎亡き後も、楡脳病院の関係者たちはかつての輝かしさを取り戻そうと奮闘する。
「偉大」な父の築いた栄光を維持すべく、夫に重荷を負わせる龍子、
それに怒りながらも、東北人の粘り強さで学問と病院経営に打ち込む徹吉、
彼の苦悩など何処吹く風と、それぞれの青春を謳歌する子供たち。

やがて彼らの喜びも悲しみもすべてを巻き込んでいく太平洋戦争。大きな歴史のうねりの前には、
個人はまるで一枚の木の葉のように無力であることを、これほど巧みに描き出した作品を寡聞にして知らない。

本作の最後で、戦争で多くを失いながらも食料の茶殻を挽き続ける龍子のモデルが、作者の母の故斉藤輝子氏、
敗戦で虚脱状態になった長男の峻一が、今も数々の著作で親しまれる「モタさん」こと斉藤茂太氏であり、
「楡家の人びと」とその子孫が、平成の今もこの日本で活躍中であることを思うと、
戦後の貧窮と混乱のなかで生き抜いた日本人の努力とたくましさに、大きな感動を覚えずにはいられない。
日本人が歩んできた道を知るためにも、多くの若い人に読んでもらいたい本だ。


「小説家」北杜夫が生んだ名作 ★★★★★
北杜夫の名が広く知られるようになったのは「どくとるマンボウ航海記」である。また、小説家として一般的に認知されたのは、ナチス政権下で実施された精神病患者に対する安死術をめぐる精神科医の苦悩を描いた、芥川賞受賞作「夜と霧の隅で」である。そして、明と暗、軽さと重さ、著者が持つ異なる二つの資質が共存した作品が「楡家の人びと」である。

作品全体を覆う、自虐的ですらあるのに決して下品にはならないユーモア、叙情性は明るさと軽さである。繁栄を誇りながらも戦争という国の起こす大きな波に抗しきれず、徐々に没落してゆく楡一族の姿、彼らの人間的魅力と著者のユーモアの陰に隠れているが、その底には暗さが見える。中でも、自分の分身(というかそれしか残っていなかった)ともいえる膨大な資料と原稿を「空襲」で失ってしまった徹吉の姿はその象徴なのかもしれない。

その姿は「夜と霧の隅で」に登場する精神科医達の姿…個人の力ではどうにもならないと頭では理解しながらも治療を続ける精神科医達の姿と同じく、国家に対する個人の無力さが感じられる。

と、いろんなことを言ってみても、この作品は、明治・大正・昭和という時代に飲み込まれる、楡家というなんとも人間臭く魅力的な一族を描いた、圧倒的に面白い人間ドラマである。著者は、楡一族ばかりではなく脇役にも目を配り、キャラクターと人生を与えている。こういう細かいところも作品に奥行きを持たせている。長篇であるが無駄なところは全くない。「小説家」北杜夫が書いた名作である。

三島由紀夫がこの作品を“これこそ小説だ”と言ったが、本当にその通りだと思う。
小説を読むことの醍醐味を知ることができる一冊 ★★★★★
 明治・大正・昭和という激動の時代を生きた三代に渡るある医家の物語ですが、登場人物たちがこの大部の小説の中で何かを成し遂げることはありません。滑稽さをまじえながら、そして物語の途上でその何人かを実にあっけないほどに殺してしまいながら、市井の人々の姿をじっくりと著者・北杜夫氏は描き続けています。幕切れもまたありふれたある日の茶の間風景の中にまぎれて訪れるほどです。

 しかしこの長編小説は全く飽きさせることなく読者をぐいぐいと引っ張り続けます。それは登場人物が魅力的だから?いえいえ、登場人物たちはあきれるほど身勝手だったり、さかしかったりして、他者の範となるような者はひとりとして現れません。それにもかかわらずこの小説が魅力的なのは、その登場人物ひとりひとりの人間くささに読者である私自身の様々な側面を重ねて読むことができるからです。

 それはウッディ・アレンの映画の魅力にも似ているような気がします。彼は自身の作品の中で、どうしようもなくだらしなく、だからこそ人間的な人々を執拗なまでに繰り返し描いてきました。決して観客の多くが共感できるわけではないのに、なぜかやるせないほど人間的な人々の姿を倦むことなく綴り続ける。

 この「楡家の人びと」の尽きせぬ魅力とはまさにそういうところにあるのだと思います。

 終章を読み終えてページを閉じるにあたって、この物語にはもう本当に続きがないのかと実に惜しい気持ちにとらわれたのは私だけではなかったようです。巻末に作家・辻邦夫が綴っている解説にも同様の記述を見つけ、わが意を得たりという思いをしました。

読むべきである小説があるとすればこれである! ★★★★★
 これは全く素晴しい小説としか言うことが出来ない。なぜなら作者の筆力、表現力、全ての作品に見られるおおらかなユーモア、元は作詩をしていたところから来ると思われる独特のリズムある文体、そして作者の過去に寄せる思いなどがぶつかり合い、誰にも真似できないものへと作品を高めているからである。これについて私には批判は出来ない、なぜならこの作品はあまりに素晴らしく、批判すべき点すら見つけることが出来ないから。

 また、自分の過去のことを書き、人をどこかへ連れて行くことにかけて北杜夫に勝る作家はそうはいないと思われる。少なくとも私は知らない。そして彼の語る過去は、自分のことを語りながらも、一面的な、単なる愚痴のような、あるいは自己満足にあふれる物にならず、普遍的な、共通の懐かしさを人々に与える物となるのである。彼にかかれば30年は永遠の昔ではない。すぐ前だ。そうだ、昨日だ。そして実際に、我々にとってそれは永遠の昔ではないはずではないか?

 彼は歴史を、本当に脈打っている物、流れとしてはっきりと我々の前に現出させてくれる。そして最後のページまでその流れの深さ、美しさに魅了されていた読者たちは、突如、私たちもその物語の登場人物であったことに気がつく。ページが少なくなるにつれて、終わるな終わるなと念じながら読んでいた物語が終わった瞬間、自分たちがその物語の世界にいることに気がつくのだ。

 現実のことが書いてある本などうんざりと思っているファンタジー小説の愛好家の方よ(もちろんそう思っていないファンタジー小説愛好家の方もいるであろうし、そもそもファンタジー小説とは何であろうか?便宜上こう呼ぶのみである)、ここに、現実のことを書きながらかくもいきいきとした本がある。そしてその本は、現実を変えてくれるのですよ。本の中に入って、その事によって世界が変えられる本の一つなのですよ、これは。