北杜夫の処女作にして隠れた名作
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個人的に思い入れのある一冊である。
小学生だった頃、自宅の近くに小さな本屋があった。その本屋の書棚の片隅にこの本はあった。ほかにいくらでも本は並んでいたにもかかわらず、おそらくはその不気味なタイトルにひかれ、爪先立ちで手を伸ばした。
「人はなぜ追憶を語るのだろうか」
冒頭のその一文を読んで、思わず本を元に戻した。幽霊とは何の関係もないように思われるその一文が、かえって不気味に感じられこわくなったのかも知れない。
結局本書を読んだのは中学生になってから。その後北杜夫がトーマス・マンに心酔していることを知って『トニオ・クレーゲル』や『ブッデンブロークス』を読み、後者によってショーペンハウアーを知り哲学の世界に足を踏み入れることになるのだから、よくも悪しくも本書は今の自分の原点と言ってもいいのかも知れない。
北自身が学生時代の日記の中で、処女作となる本書を書き始めつつ「『マルテの手記』の影響が大きい」と独白しているように、本書はトーマス・マン的なストーリー性はほとんど持っていない。或る一青年による幼年期の回想の物語であり、何か特に事件が起こるわけでもない。しかしその描写は絵画のように美しく詩的であり、まるで自分の幼年時代が語られているかのように、読者は作品の中に引き込まれてゆく。
後年の大作『楡家の人びと』などと較べると物足りなく思われるのかも知れないが、若さだけが持つ感受性によって刻まれた北のこの記念碑的処女長編を、同氏の作品中最も愛しているファンも少なくないのではないだろうか。言葉に対するこの繊細さは、父である大歌人斉藤茂吉からやはり受け継いだものであろう。若い読者にさりげなく手渡したくなるそんな一冊である。
若い日の恥ずかしさ
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この本は、読むたびに新たな感動を呼び覚ます。私は、初めて読んだのは大学に入ったころだと記憶する。その後、何度か読んでいるが、ある意味では、北文学の本質を突いている作品であると思う。 若い日の恥ずかしさ、恐れおののく気分、これである、若い時というのは素晴らしいことであるとともに、また、気恥ずかしい時期なのだ。 今後も北杜夫の作品は、深く、緩やかに読み継がれていくはずだ。
また、改めて・・・
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この初期の名作については、正直言うと、まだ、理解できない。
北杜夫と言う作家を理解するに当たって、「どくとるマンボウ」物から入って来た人にしても、「楡家の人々」あたりから入ってきた人にしても、この作家が、自他共に認める躁鬱状態の人であることを考えれば、どういう状況で書かれたかは、一つの目安にはなろう。いずれレビューを書くであろう「マブゼ博士」物の様に、「ちょいと勘弁してね」と言う作品もあるが、高い水準を保った作家である。
その中で、「幽霊」「木霊」と言う作品について言うなら、私は、彼の全作品を読んだと自負できるが、「青春記」にある、「ドストエフスキーなどと言うおっかない作家には近づかないようにしている」と言うのと同じ印象を持っている。
安易に論評を加えるには、あまりにおっかない作品だからである。
二十歳そこそこで書かれたこの処女作(「青春記」にある、でたらめな偽小説は別にして)を正面から論ずることができるようになるには、まだ少し、時間が必要だと思う。
この作品、この人を忘れてはいけない。
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太宰に通ずる「甘え」と、若人のみが持ちうる潔癖さが同居する文体で少年期の魂の彷徨を描いた作品。あまりに印象的かつ美しい書き出しで始まり、心の襞を、硬質な透明感のある文体で解きほぐしていく。最初に読んで10年近くたつが、何度読んでも言いようのない哀愁を覚える。文学史に強烈な足跡を残すような作品ではないかもしれない。だが、日本戦後文学史における最も美しく、ひそやかな頂である事は間違いない。「文学」というものに対して懐疑的な現代において、文学の素晴らしさを再確認させてくれる一品。