すべてのエメラルドはグルーである
★★★★★
惜しい、こんな有名な本をだれもレビューしてないなんて
序文に「『事実・虚構・予言』は現代の古典という地位を獲得している」とまで書かれる本なのに・・・
日本でのグッドマンの扱いはちとひどすぎるのではなかろうか。
本書では、帰納、推測、反実仮想といった問題を取り上げている。
そうした用法の、我々の直感の分析と理論の構築を行っている。
反実仮想は、例えば雨が降っている日を振り返って「もし雨が降っていなかったら、ハイキングしていただろうに」などと思うものである。
しかし、「pならばq」は、論理学で習うように、pが偽ならば、qではどんなことを述べても、「pならばq」は真なる文となる。
そうすると、実際には雨が降っており、「もし雨が降っていなかったら」と偽なる仮定を置いているのだから、後半にどのような文を置いても、「もし雨が降っていなかったら、〜」は真なる文となる。
しかしこれは通常の用法に反している。とすれば、我々はどのように認められる反実仮想と認められない反実仮想を分けているのだろうか。
我々は、有効な帰納とそうでない帰納を使い分けている。
例えば、ある種から3つの花が咲き、そのうち2つが黄色い花だったとしよう。このとき、3つ目の花も黄色いだろうと帰納的に推測するのは妥当な推測である。
しかし、ある部屋に3人の人がいて、そのうち2人は次男であったとしよう。このとき、3人目の人も次男だろうと帰納的に推測するのは妥当ではない推測である。
さて、この2つを、論点先取りに陥らずに区別するのはなんだろうか。
性質は可能的に語られる。
例えば、あるビンの中の液体を「それは燃える」と言ったとしよう。当然その液体は今現在燃えているわけではない。すなわちそれは可能的に燃えるということだ。
しかし、その液体は結局最後まで燃えずに終わるかもしれない。さて我々は何を語っているのか。
エメラルドはグリーンである。少なくともこれまではそうであったし、従ってそう帰納的に推測するのは妥当だろう。
ところが、「エメラルドはグルーだ」という帰納も、「エメラルドはグリーンだ」と同等に妥当な推論である。
グルーとは、ある時刻(今よりは未来の時刻)まではグリーンであり、その時刻以降はブルーであるような性質を指す。
今までグリーンであったというデータは、今までグルーであったというデータでもあり、確からしさを等しく保証している。
では、エメラルドはグリーンだと推測したい我々の考えは、誤りなのだろうか。
グッドマンは、過去の推測での語の用いられ方でもって、グリーンの側を擁護する。
つまり、過去の推測の際に、グルーのような語よりも、グリーンのような語のほうが圧倒的に多く用いられていたため、グリーンの方が正しさが上なのだ。
また、推測においては、対象となるものを含んでいる集合のもつ性質も、その推測の妥当性を左右する。
さらに、不自然な予測を避けるため、二つ同等に確からしさが保証され、かつ対立するような推測は、ともに保留するような方法を編み出す。
投げてくる問いは、日常的で、また悩まされてしまう類のものである。
考えてみても面白いものが多い。
グルーのパラドックスは特に有名だ。
(似て非なるパラドックスに、クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』がある)
グッドマンは、欧米では高い評価を受けているのに、日本での扱いは低い。
訳書も、本書と、最近ちくま文庫で復刊された『世界製作の方法』だけである。
もっと読まれるべき哲学者だと思われる。