何か、上から目線・・・
★★★☆☆
この作者の著作は初めて読みました。
なので、作者に対する予備知識なしで本書の印象だけで評価させていただくんですが、正直読みにくい本でした。
まず文章が読みにくいです。一文がだらだらつながっていて、主語が途中で分からなくなってしまっているような文章が、特に前半にとても多いです。
内容は、過去に話題になったりベストセラーになったりした日本文化論にけちをつけているといったもので、読んでいるぶんにはなかなか面白いし、的を得ているものもあるのですが、では著者の意見なり見解なりはどうなのかは、読み終わってもよく分かりません。
始終他人のやっていることを、自分基準で「これはダメ」「これはいい」と評価しているだけの本です。
著者はたぶん頭のいい人で、物事の欠点が目に付いてしょうがない人なんでしょう。
でも、他人の仕事を上から目線で評価しているだけという態度は、果たして「学問的」なのかと、読みながら非常に疑問に感じてしまいました。
こう言っては何ですが、著者のプロフィールがカバーの返しになかったら、80歳くらいの大御所が口述筆記で記した本といっても通用しそうな雰囲気です。
言いたい放題ですね
★★☆☆☆
むかし著者の『もてない男』を読み、その八方破れな論旨に笑い、かつ感心した覚えがある。その後、著者は文学研究者・評論家として随分多くの本を出しているようで、その主軸たる恋愛論にも売春論にもさほどの関心を持てないまま、評者にとっては本書が『もてない』に続く、やっとこさの2冊目。遠慮会釈のない他者批判、本音暴露の言いたい放題の一方、実証的な「学問」に対する憧憬というウブな気配が本書にも残っていて、割と楽しく読み終えることができた。と同時に、推敲の途中に催促を受けて急いでメール送信したような乱雑な文体、この程度では博覧強記とはちょっと言い難いペダントリーなど、どことなくアマチュアっぽい、野暮ったさも随所に窺われ、その点は『もてない』の頃とあまり変わらないように思った。
本書のタイトルにあたるメインテーマについても、辛口に評したくなる。例えば、『甘えの構造』『ものぐさ精神分析』批判は主観的・情緒的なだけだし、『逝きし世の面影』を「トンデモ本」認定するくだり(180頁)に至っては、維新期の日本人は裸体を気にしなかった、という往時の外国人の観察の引用に対する部分的な難癖に過ぎず、ロングセラーに対する「批判のための批判」に走ったあげくに「馬脚を現した」感じ。さらに、通読して分かったのは、著者は司馬遼太郎と井上章一に随分甘く、一方で自らの師匠だという平川祐弘に対しては、文体上の工夫と配慮を欠いたままの罵倒を繰り返している。行間をにらんでも見えてこない、複雑怪奇で属人的な事情が絡んでいるのだろうか。そう思わせるほど、固有名詞を挙げてのマイナス評価のくだりは品がない。
トピカルとインテリ大衆
★★★★★
新書のコーナーに行くと相変わらずトピカルなタイトルの本が並んでいる。昔のトピカルソングと言えばみんなホラ話と受け取ったものだが、今ではj-popの歌詞をリアルに受け取っている若者も居るようだ。グーテンベルグの発明品なら価値のあるものだろうと思うインテリや亜インテリが本気で日本文化論を信じる。まあ確かに事実は正確な記録によってしかなされないが、合理性や理性はそれを支えるだろう。その精神を支えるのが小谷野さんの退屈論だ。何しろそんな社会は退屈でしょうがないだろうからね。
小谷野敦卒業は諦めました。当分お付き合いさせていただきます。
★★★★☆
本書の論点は多岐にわたるので、摘み食い的に感想を述べます。
第2章でも論じられるように、著者は文化の「本質」とか歴史の「法則性」とかいった概念には懐疑的です。ただ著者は「あらゆる日本文化論がインチキだと言っているのではな」(p90)く、「身分、階層による差が大きいことに留意すれば、文化論は成り立つと考えている」(p92)そうです。あるいは著者自身、自らの著作群を通じてその具体的な姿の一端なりと示している、という自負を抱いているのかもしれません。
しかし一方で私は、「本質」や「法則性」といった概念にも、使いみちはあると思います。
確かに今どき「本質」やら「(歴史の)法則性」やらをナイーヴに振り回す議論には困りものですし、特にマルクス主義の退潮によって、その種の議論は少なくなったと思うのですが、しかしやはり社会科学などの分野で「予測」を立てる場合、それらに類する概念(例えば「システム」)は有用ではないかと思います。「個人」や「小集団」の単位で「人格」「性格」や「行動特性」を考えることと、「社会」や「国家」といった水準で一定の「本質」なり「法則性」なり「古層」なりを想定することに、権利上の違いはないでしょう。ま、モノにもよりますし、飽くまでも思考のツールと弁えたうえでなら、そういう論の立て方が許される場合もあるのではないでしょうか。
いやまあ、「社会科学」とか「心理学」とかのガサツな「一般論」そのものが肌に合わないという人は常におられるわけですし、「一般論」を経由せずに知識と経験に基づく洞察力を発揮される達人もおられるわけではありますが……
学問とはなにか、研究はどうあるべきか
★★★★☆
小谷野敦を読むのは5年ぶりです。
論文ではなく、エッセイに近い。
寝る前にちょっと…と思ったのが、著者の勢いに目が冴えてやめられず、
最後まで一気に読んでしまいました。
小谷野敦、健在。
縦横無尽に行き来する知識と、それを裏付ける読書量、怒涛のような文章。
比較文学者を名乗るには当然のことなのかもしれないが、
(だからこそ、中途半端な知識で書かれた日本文化論に対する“怒り”が収まらないのだろうけれど)
この論文にまで目配りするのか…と驚かされます。
一文が長く、意味が取りづらいところがあり、
また、
第六章後半のVS平川先生の箇所は、知らない固有名詞と論文タイトルの羅列で読むのがしんどかったけれど、
作家・知識人・学者が書いていてもマユツバものはある、という注意勧告はしっかり届きました。
マユツバである理由は、裏表紙に要約されていますが、
日本文化論の論としてのいい加減さのみならず、学者としてどうなのか?という苛立ちが根本にあるのだと思います。
余談ですが、本書でちょいちょい顔を出す、日本近代文学研究の変遷が、個人的に興味深かったです。
<カルスタ><ポスコロ>の、おそらく最盛期に文学部にいた身としては懐かしく、不謹慎だが笑える。
それにしても、もう少し早く本書を読めばよかった…『プロ倫』、買ってしまいました。