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「日本人論」再考 (講談社学術文庫)

価格: ¥1,103
カテゴリ: 文庫
ブランド: 講談社
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なぜ「日本人論」が語られるのか ★★★★★
巷にあふれかえっている「日本人論」の背景構造を分析した好著。

なぜこの時期に日本人論が求められたのか、そしてこれはどういう要請によるものなのか、をきちんと考えた本は本書を除いてはそうは存在しない。
「日本人論」は「不安」とともに出現する。それは「失敗における不安」は当然として、成功しているときも「本当に成功で大丈夫なのか」といったある種の不安が伴われる。

特に「日本」の成功は近代化の成功とともにあるがゆえに、近代が本当に正しいものなのか、それは日本にとってどうなのか、という問題は常に残されてきていた。
それは同時に「日本人論」が生まれ続ける要因でもあった。


あと、本書はイメージだけで語られやすい古典をきちんと解説してくれている点もうれしい。
『武士道』『菊と刀』『「いき」の構造』『タテ社会の人間関係』など、名前は知っているが読んだことはない、それでいて何となく中身のイメージはつく、という本が、実はイメージと全然違う内容が書かれている、ということも本書ではしばしば指摘されている。


筆者は最後に、もはや日本人論を必要としない時代への始まりを暗示している。
それが本当かは、今後の「日本人論」の状況を見てのお楽しみである。
「司馬問題」へのひとつの回答 ★★★★☆
 本書でもっとも興味深かったのは、司馬遼太郎が『この国のかたち』等の中で繰り返し語っている問題に触れた箇所だ。それは明治維新から日露戦争までの40年間「健康」なナショナリズムに支えられていた明治国家が、その後なぜ司馬が「鬼胎の40年」と呼ぶ、無謀な戦争への道をたどり、みじめな敗戦にいたったかという問題だ。著者は、その鬼胎の40年間に日本を背負っていた人々(夏目漱石の『三四郎』の世代にあたる)は、誰にどのように育てられたのかと問いかける。彼らを育てた先行世代は、日本を文明開化し欧米列強と対等に付き合える強国に育てあげたのだが、それゆえ自分たちが朝鮮や中国とは違うこと、欧米人に引け目を感じなくてもよいことに対して、大きな誇りを持たせるように後続世代を育てたのだという。だから三四郎の世代がアジア諸国に対して、誇りの変質した蔑視感情を持ち、欧米との外交においては大変強硬な姿勢をとったことは、なにも不思議なことではなく、先行世代がそうあれかしと望んだことだったのだという。

 著者はさらにこの図式は、第二次大戦後の日本にも適用できるという。現代の日本人は、敗戦の反省から「自由・平等・平和」を理念にして、戦後40年間にわたる日本の復興・高度経済成長を背負ってきた世代に育てられた。それゆえ、好きなことをして生きることを自由と考えたり、平等の名のもとに人の上に立つことを嫌い、責任を取ることを避けたとしても、また個人的レベルでの平和を求めて、他者との人間関係を最小限に限定し地域コミュニティを弱体化させたとしても、実はそれは彼らが先行世代に教えられたように振舞っているということなのだと指摘する。先行世代が後続世代に与える影響の大きさと、それにもかかわらず世代間の断絶の深さとが近代日本のはらむ大きな問題として浮かび上がってくるように思う。
文化人類学者による「日本人論・論」 ★★★☆☆
数多の「日本人論」(有名であるがゆえに読まれない本=古典)について、
解説・解釈を加えながら、
筆者独自の視点をちりばめる。
そういうスタイルで書かれた本。
筆者曰く「日本人論・論」

学術書ではない。
つまり。非常に読みやすいってことだ。

ある「日本人論」が書かれたときの時代背景・社会状況を
考慮にいれつつ、

分析がなされている点に好感が持てる。

『菊と刀』や『タテ社会の人間関係:単一社会の理論』といった、
古典の内容が
歪んで理解されていることを筆者は嘆いている。
読んでないのに、「わかったふり」をしている者が多すぎるのだと。
確かにそうかもしれないと、思う。(自戒)

外国にいったときに感じるコンプレックスや、

それに対する反作用としての「愛国」的な感情が、
玉石混淆の日本人論が書かれる動機となり、
内容にも影響を与えているという筆者の主張には、
共感をおぼえた。

今後の基本文献となる本の誕生に喝采! ★★★★★
本書は2002年のNHK教育テレビ「人間講座」で放映された同名の番組のテキストがもととなって生まれた本である。放映当時に興味深くこの番組を視聴した自分としては、このよくできたテキストが、放送終了以降、人の目に触れることなく埋もれてしまうことを非常に惜しく思っていただけに、今回こうやってあらためて改訂・増補されて発売となったことに快哉を叫びたい。

『武士道』『風土』『菊と刀』『「甘え」の構造』『「世間」とは何か』などなど、明治以降、数多の日本人論が生まれ、そして消費されていった。その著者ごとのさまざまな視点から「日本」「日本文化」あるいは「日本人」といったものが語られ続けた ― こうした「日本人論」が語られ続けた歴史的状況に対し、文化人類学者である著者は、「では、なぜ「日本人論」というものは語られ続け、生産され続けたのか?」を問う。そこで浮かび上がってくるのは、近代日本という否応なく外国という他者の目に晒されることとなった状況の中で、絶えず「自分とは何者なのか?」との不安にさらされることとなった日本人のアイデンティティの動揺する姿である。この本はこれまで書かれてきた日本人論を通して日本人を語ろうとする、いわば「メタ「日本人論」論」とでも言うべきものだ。

明治以降21世紀の現代に至るまでのおもな日本人論(あの「プロジェクトX」まで!)を概観しつつも、単なる概説書にはとどまらず、著者独自の観点もあちこちに入っており、読みごたえがある。とは言っても、内容は決して晦渋・難解なものではなく、一般読者向けに平明に書かれている。学生・社会人に対してのみならず、大学受験を控えた受験生にもぜひ一読を勧めたい(これを読んでおくと、現代文・小論文の課題文理解でだいぶ助かるだろう)。

少なくとも、この本を読んだ後では「日本人とは…」と安易な言葉は口に出せなくなるだろう。

鋭く深い日本人論・論 ★★★★★
日本人論は、日本人が西洋近代の中で近代化して行くときに、日本と西洋のあいだでアイデンティティが引き裂かれ、その不安定さを理論的に払拭するために書かれたのだ、という著者の主張は鋭い。その不安は、日本人論の著者たちが、西洋に直面したときに個人的に生まれ、それを国民のレベルで説明しようとして日本人論が書かれるのだという。だから、新渡戸稲造でも、司馬遼太郎でも、阿部謹也でも、日本人論を書いている人は何らかのかたちの外国体験、留学とかがあって、その時に何かの発想を得たり、傷を受けているようだ。それからなかなかと思ったのは、日本人論はまた、日本が調子が悪い時には、やっぱり日本はもともと西洋と歴史を共有してないから西洋近代が身に付かないのだ、という不安から書かれるのだが、調子がいいときもまた、日本は西洋からルール違反だと外されるのではないか、とか、日本は西洋でないから成功したのだ、と、時には国粋主義的に、不安の裏返しの傲慢でもって書かれる、という指摘だ。ただ、こうした理論的な点は抽象的に論じられているのではなく、明治以来の日本人論の解説のなかで調べられていくのだがそこがスリリングで面白い。特に「国民」と「臣民」についての箇所が圧巻である。