データ処理の対極にある、対象を血肉化していく作業にこそ平岡正明の真骨頂がある
★★★★☆
ジャズ喫茶でジャズに聴き入ることと、図書館の視聴覚コーナーでヘッドホンで落語CDに聴き入ることはイコールである。これが平岡正明の創作方法だ。自分と徹底的に向き合う時間空間が大切なのだ。俺自身は落語はライブでしか聴かないけど平岡のアプローチは認める。対象へ迫ること(=自分に迫ること)、対象を解釈すること(=自分を解釈すること)は人によって方法論が違うはずだし、それでいい。平岡は自分を経由した記憶でしか語らないから、俺が気づいただけでも事実関係の誤認、記憶違いがいくつもあるけど、そんなこたぁ瑣末なことであって。データ処理の対極にある、対象を血肉化していく作業にこそ平岡の真骨頂がある。今の時代、レトリックとか理論武装、イデオロギーに重きが置かれないけど、俺はそういった外連味って大事だと思うな。自分探しとか言うけど、それって自分の中で完結、孤立することじゃなくってさ。自分を他者にどう位置付けるか、他者を自分にどう位置付けるかってことであり。平岡のアプローチはとても参考になる。平岡にはそのレトリックにいつもやられるけど、「二人の名人からさっそく学んだのは、話というものはドライブさせるものだということだ。文学+ドライブ感、このドライブ感から言霊が発生しているのが落語だ」「ジャズファンなら経験するだろう。ジャズのレコードは面白いが、ジャズ演奏のビデオはつまらない。視覚がじゃまだ」あるいは、「世界革命の視点なしに楽しい落語は奇蹟的な平民芸術だ」なんてさ。ジャズ、落語の総体としての捉え方もそうだけど、平岡の噺+演者に対する解釈はオリジナリティーがあって、ほんと面白い。
今回、読んでて一等腑に落ちたのは、油井正一のジャズと落語の共通点についての引用だ。「どちらも枕(イントロ)も運び(アドリブ)もサゲ(エンディング)もわかっているのに何度もくりかえし聞いても楽しい」。よく出来たなぞかけである。