現代に成道した釈尊の転法輪とも言うべき
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原書のタイトルは「力の芸術と言うべき(三十七菩提分法の)“五力”の(修行の)良さは、我々の幸福と他者の幸福を増す(自利利他)という一点に尽きる」と直訳できる。このタイトルが表すように、本書の特徴は、「釈尊が創始して上座仏教(小乗仏教ともいう)の途中まで伝えられた三十七菩提分法の“五力”という修行法を、大乗仏教の観点で現代人が実践できる修行法に進化させた」点にある。ただし、それは従来の大乗仏教の教義を発展させたのではなく、釈尊の大乗的姿勢に立ち戻ったと言える。
その意味はこうである。『大乗としての浄土:空・唯識から念仏へ』(山口益著)によれば、縁起の道理(=空性真如=悟りの境地)を証悟した菩提樹下の仏陀釈尊(小乗の独覚のこと)は、「四七の三昧及び梵天の勧請」(衆生に対する釈尊の気づきの実践を比喩したもの)を承けて決意し、縁起の道理を説き始めた鹿野園の仏陀釈尊(大乗の如来のこと)になったと論じている。つまり小乗とか大乗というのは、「独覚 ⇒ 勧請 ⇒ 如来」と推移した釈尊成道の一ヶ月のある局面を捉えたに過ぎないという訳である。
本書は、そのような釈尊の成道の推移に倣って、ティク・ナット・ハン師が説法したかのようである。釈尊の時代に比べて、現代の貪・瞋・痴の対象は日常生活に満ちあふれている。上座仏教の修行法としてヴィパッサナー瞑想が日本でも知られるようになったが、日常生活を離れた瞑想修行だけでは釈尊が否定したアーラーラ・カーラーマ仙人やウッダカ・ラーマプッタ仙人の境地にしか至ることはできない。
『いつまでもデブと思うなよ』(岡田斗司夫著)で食の貪欲に気づきを実践した「レコーディング・ダイエット」のように、日常生活で貪・瞋・痴に気づくための実践が本書の「五力」なのである。