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考えあう技術 (ちくま新書)

価格: ¥819
カテゴリ: 新書
ブランド: 筑摩書房
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対談集がだけっこうむずかしい ★★★★★
日本は80年代にものがあふれて先進国へのキャッチアップをする意味がなくなり、勉強をする意味が失われたと言う。
そこで政府は徳目教育をすることで学ぶ意味を作ろうとしたが失敗した。
個々人の学ぶ意味とかではなく、社会を作っていく、参加していくための準備としての教育が必要だと説いている。

ほかにも多様な話題で社会学者と哲学者の問いを深めあう課程は続いていく。

苅谷剛彦というとなんとなく冷たいイメージはあるが、本書の対談では熱い思いを語っている。
意外にも哲学者である西研のほうが具体的な話が多く、苅谷剛彦はかなり抽象的に語っていた。
それはあと書きによれば「あえて」取ったスタイルであったという。
外交的すぎる、共同体主義に近い、が、あくまでリベラルな教育論 ★★★★★
まず私は西研氏とその思想、依拠しているヘーゲル、あとは反体制的思想や相対主義を経て今に至るという彼の経歴、この全てが嫌いではない。むしろ西研氏の「新しいヘーゲル」には感動すらした。本書でも自由のための教育、自由な社会を担うための教育という理想を掲げておりこの字句にはかなり賛同できたため、読前の期待の念をさらに高めながら本書を読んだ。

西研氏にとってヘーゲルは他ならない自由主義者であり本書で探求されているのはリベラルな教育と言える。本人らが「リベラルな教育と呼ぶには…」と言っている。マルクス主義の崩壊とそれを受けてのポストモダンの登場とその無力、それ故のロールズの登場という哲学史に西氏が触れてる事からも今現在まさにリベラリズムが学校にも必要であると考えられていることが伺える。そしてリベラリズムは基本的に共同体主義とは対立する。(同化する向きもあるが)苅谷氏が「それは共同体主義とは違いますよね」と言った時、西氏は明白にそれを否定し、共同体主義の端的な問題を挙げている。

にも関らず言いたいが、彼らの教育論は幾らか共同体主義的ではないだろうか。西氏は確かに自由を重んじているが極めて積極的な自由主義に見える。それは自由な社会をより良く維持するため子供達に政治的結社や政治的議論を強制する事を厭わないような立場である。(この表現は語弊があるように見えて、語弊はないと思う)それは主体的で積極的で自由主義的で政治的な個人を生み出すための、それを義務とした教育である。まさに「考え合う技術」、考え合う能力をつけ、実際に考え合うのが彼らの理想なのである。

だがこれは半ば動員的であるし、自由のための自由の制限とは言え絶対的に必要な制限かと言えば異論がありうる。西氏は共同体主義は自発的でない共同体への参加を押し付けるからダメだと言った。だから自分達で作る自分達の結社を重んじるのは自由主義に合致するという。その通りだ。その通りだが、それは強制されてはならないのではないか。自発的結社を強制された時点でそれは何も自発的ではないのだから。

仮に西氏の教育論を共同体主義的というのが不当なレッテル貼りならば、別の言い方をしたい。これは共同体主義でないにしても明らかなシティズンシップ志向であると。あまりに積極的な自由主義、より良き民主主義のため公共的人間になることを義務とするような善意の干渉主義、簡単に言えば、自由と民主主義を正しく機能させるためなら個人の自由は制限されていい、というのがその考え方である。もっと言えばここで言う自由の制限とは普通は政治に関心を持たねばならないという義務、ちゃんと勉強してよく考えてよく話し合って投票せねばならない、そもそも投票を拒否してはならない、といった制限を指す。これはリベラルな論者の中でも賛同者と反対者に二分される。西氏は悩みながらもこれに賛同するか、悩む間もなくこれは素晴らしく必要な事だと断じるかのどちらかだろう。私はこのような制限は魅力的であり、またかなりの有効性を持っていると認めつつも、大変迷いながら賛成は避ける。政治に無関心な人々による民主主義は確かに問題ありだが、だからといって全員に政治に関心を持たせるのは自由主義に反すると思うし、何よりも現実的に困難であり、関心を判断する尺度も簡単に決められるとは思わないからだ。

言ってしまえば西氏の教育論は外交的に過ぎ、明るすぎるのだ。こんなに明るい教育論は例えば引き篭もり体質の子供、対人能力のない子供、ただ黙々と勉強することが好きな子供には恐ろしい要求に見えるに違いない。それはもっと外交的になること、人と触れ合う事、一人の勉強を抜け出て共同体に参加することを理想として押し付けてくる。これの何が共同体主義でないのか。あるいは何がパターナリズムでないのか。

最後の苅谷氏単独の文章でも共同体主義的匂いは漂っている。本人にも自覚及びそれに対する危惧の念はあるようで「少し共同性を強調しすぎたかもしれない」「あくまで選択的な仮想の共同体であり、参入離脱が不可能な共同体ではない」と断っている。こう言う限り苅谷氏はあくまでリベラルな観点から教育を語っているのであって、その点は私は安心できる。ただリベラルの枠内で共同性をかなり強調している事は事実で、それは見方によっては一切の共同性にアレルギーを示してるようなリベラルよりは優越しているが、見方によっては共同体主義に転じる危険もあるとも見える。彼は限りなくリベラルな共同体主義者であるか、かなり共同体主義にもシンパシーがあるリベラルかではないか。いや仮にこの問題を共同体主義云々というレッテル貼りから切り離したとしても、例えば民主主義を上手くやっていくためには皆過剰に個人主義的ではなく、もっと外向性、共同性を身につけばという一見善意と民主主義と自由の精神に基づく提言すら厳密には非リベラルな押し付けとも言いうる。(実は宮台氏などにもこういった一面はあるように思う)如何に選択共同体や理念の共同体とは言ってもそれに積極的に参加しない自由を認めているわけではないのだ。

また彼らは普通教育を弁護する。何故なら職業選択の自由を広く保障するためには出来るだけ途中でどんな夢を持っても大丈夫なように幅広い才能を伸ばしておく必要があるからだそうだ。尤もらしい。かつ善意に基づいている。一定の真理も備えている。だがそれでも、と思う。それでもそれは既存の普通教育と無断で恣意的に決定されている教科を保守するための都合のいい後付けではないのか、と。如何に私が唐突にスポーツ選手になりたがる可能性がゼロではないとしても、だからといって幅広いスポーツを幼少の頃からやらされ、毎日苛酷な持久走をやらされ、何メートルを何分で走れるまで補習をさせられる…こういった事を受けて、それを余計なお世話だとか、こんな事必要ないのにとか、こんな事なら別に唐突にスポーツ選手になりたくなった時に少しく困っても別にもいい、などと思わない自信はない。この例は偶々体育だが、これは基本的に他の教科にもそのまま言える。「君の将来のための普通教育」がいつでも子供に多大な苦痛を与えるパターナリズムと化しうる事をもっと強く認識する必要があるのではないか。(勿論著者らにその認識がないわけではないようである)仮に彼らの目的を評価し、それを貫徹すべきとしても、それならその普通教育とやらは今よりももっと広範なものになるべきはずだ。職業というものは非常に多くある。そのどれを望んでも役立つような幅広い知識能力を養うべしとなると、子供が学校ですべきことは爆発するに違いない。…とはいえリベラルな教育論として非常な良書。「学校が自由になる日」と並んでかなりのお薦めである。また苅谷氏がこんなに積極的に自分の理念、教育論を語っているのは私は初めて見たので、その意味でも貴重に思えた。
こういう視点も ★★★★☆
教育学者苅谷剛彦と哲学者西研との対談形式。テーマが教育なので西さんが意見をぶつける場面が多いか。とりあえず苅谷さんの今までの主張(「意欲格差」「民主主義の学び直し」など)を知っていないと哲学者と対談するスリリングさみたいなものがわかりにくいかも。そういう意味ではやや不親切な本です。教育関係のタームを哲学者が哲学的に言い換えていく感じが新鮮。「ルールを知ること」と「根拠を問うこと」との関係や「わかる」とはどういうことかなど、知ってるつもりの言葉が掘り下げられていく。特に教育関係の勉強をしている人ならハッとさせられる部分もあるのでは。
学生向けの本 ★★★☆☆
 教育を考える視点を与えてくれる本です。著者は二人とも教育現場の実践についてはあまり知識が無いようです。例えば、「集団作り」や「国語教育」について、ここに書かれているようなことは現場ではすでに多くの実践があります。
 このことを念頭に置いていただけるなら、教師以外の人には薦めたい本です。
「学ぶことの意味」を深く考える ★★★★☆
本書は、教育学者苅谷剛彦と哲学者西研との対談が主である。
なぜ学ぶのか、自由な考えと知識は共存できるか、わかるとはどういうことか、などを話し合っていく。

二人とも、徳目主義を批判し、いかにして社会を作っていくかを考えるべきとしている。
こういう視点は、当たり前ながらなかなか出来ていない気がする。

教育論議をするならば、一度は目を通しておきたい。
ただ、わりと見たことのあるような論も多く、読んだあとに強く印象に残らなかったので星1つ減点させていただいた。
しかし、別に読んで損な本ではない。