学者であれ作家であれ、代表作となるべき書物は、読む側にもおのずとわかってしまう。中沢新一はそう感じさせる著作の多い書き手ではあるが、なかでも本書の存在感はぬきんでている。中沢の信奉者ならずとも見過ごしにすべきではないだろう。
本書の主人公は、日本に国家が現れるはるか以前から活動していた最古層の神、精霊シャグジである。シャグジは国家権力の確立とともに社会のおもてから姿を消すが、著者はこの精霊が芸能・技能の守護神「宿神(シュクジン)」として力強く生きつづけたと考える。室町初期の能楽師・金春禅竹がのこした「明宿集」(著者による現代語訳を併載)によれば、猿楽の「翁」として表現されたものこそ宿神であり、宇宙の根源であるという。さらに興味深いのは、国家に追いやられたはずの宿神が、じつは権力のみなもとに横たわっているという視点だろう。天皇家では、「宿神=翁」に見られる神話的な力こそ、本来その権威を裏づけるものだったのだ。
この考察は、いうならば知の分野から権力へ向けた根本的な問題提起である。それだけですでに充分すぎるほど刺激的だが、著者の思考はさらに壮大な発展をとげる。世界中からさまざまな神や説話を探し出し、宿神との関連性を提示してみせるのだ。対象は仏教の摩多羅神、朝鮮半島の神話、はてはアーサー王伝説にまで及ぶ。今さらながら、その奔放な想像力とたくましい理論構築には脱帽せざるをえない。
著者は、民俗学に関心をいだく父親の影響で、おさないころからシャグジの存在を身近に感じていたという。じっさい、本書は亡き父に捧げられてもいる。地球規模の広がりを見せる著作がきわめて個人的な記憶に発しているのは、どことなくふしぎな気もするが、すぐれた仕事というのは案外そんなものなのかもしれない。(大滝浩太郎)
ちょっと難しい。写真もいい。
★★★★★
激ムズじゃないですが、そこそこ難しい本です。とは言え付録の明宿集が難しそうなのですっ飛ばしてしまいましたが。本文じゃないんですが、写真がいいですね。諏訪に行きたくなりました。諏訪地元の友人は「そんなとこ誰も行かないよ」というマイナーな場所なんですが。文章読んでから見返すとまたほろっときますね。カイエソバージュにも出てくるクラインのつぼとトーラス構造の話はこの本が最初なんでしょうか?ええと、そこそこ難しいので中身で印象に残ったところはありません。ただ読んでいるうちは大興奮していました。シャグジから神々の原型を探る本かと。全体的に面白いです。
神々の父母=シャグジをさがせ
★★★★★
◆縄文時代の精霊
武蔵野の古い神社の境内から、しばしば縄文時代の遺跡が発掘された。石棒、石皿、丸石などが生活の道具とともに発見されていた。神社本殿の脇の摂社、小祠などに石棒や石皿がご神体として祀られていた。シャグジ、シャクジンなどと呼ばれていた。
柳田国男の調べによると、その神が日本列島の全域から見いだされた。この神は国家が形成される以前の、神道以前の神の姿である。古層の神というより「精霊」である。
◆空(くう)より来たりし力
我々の世界=現実の世界は、仏教で言う「空(くう)」に根拠を持っている。空は潜在空間とも言える。「空」は彼方にあるのではなく、いたるところに偏在している。むしろ現実世界はその「空」に包み込まれているとも言える。
◆宗教に閉じ込められた神
この世で活動している「力」のすべては、「空=潜在空間」から出現する。力はいずれ元の生まれた場所に戻っていく。
ところが国家の出現によって、その「力」を社会の中に取り入れてしまうトリック(=宗教)を作り出した。カミは社会に持ち込まれ、名付けられて(=人格神となる)、神社の中に納められてしまった。
本来のカミ=シャグジは忘れられ、小さな祠にそっと眠っている。
◆シャグジは芸能の守護神となっていた
しかし、芸能(猿楽、能、蹴鞠など)や技術など職人(園芸、古式捕鯨など)の世界ではシャグジは宿神(シュクジン)と呼ばれ、守護神となっていた。
宿神が住まう不思議な空間の成り立ちそのものを、芸能のかたちに洗練してみせる。列島の中を移動しながら伝えていったのである。
◆シャグジをさがそう
シャグジはシクジ、シュクジノ、宿神、粛司ノ神、祝神、姉后神、敷神、守宮神などとも呼ばれている。
シャクジは天照大神などの神々の父母とも言うべき根源の神である。道端の祠を調べてみよう。
日本人の精神史における金字塔
★★★★★
私が大学生だった80年代、イデオロギー的戦後思想が終焉を迎えようとしていたころ、浅田彰の「構造と力」がベストセラーになり、ポストモダン、ニューアカデミズムと呼ばれる現代思想ブームが起こった。浅田と並び旗手として注目された中沢新一氏の「チベットのモーツァルト」はその代表作である。私自身も影響されて、上記以外に言語学や文化人類学にも繋がるポストモダンの書籍群をむさぼり読んだ記憶がある。
その中沢新一氏の著書を四半世紀ぶりぐらいに読む機会が訪れた。上梓から5年たっていたが、その半年後にも再読した。
神話の時代よりもさらに太古から信仰されていた、神というよりはむしろ精霊と呼んだほうがいいような「古層の神」。後の国家の成立により居場所を失ったかに思われた「古層の神」の現代思想的発掘が「チベットのモーツァルト」を彷彿とさせるような、読者にその波動を感じさせるがごとく展開される。
民族学者の柳田国男氏「石神問答」や能楽師の金春禅竹の「明宿集」他の資料を思考の糸口にして、フィールドワークの研究者たちの協力も得ながら、我々のDNAに息づく、原初の息吹を蘇生させてくれるかのような素晴らしい一冊である。
中沢新一でなければ書けなかった本
★★★★★
精霊についてここまで書く事ができるのは著者しかいないであろう。読み終え充足感が広がった。能楽の舞台を見に行く楽しみがまたふえ夏の薪能はこれまでにない満足感を得た。
個人的感想はここまでとし、この本の幽玄的な世界観には好き嫌いがはっきりするであろう。
精霊シャグジは国家権力の確立とともに表舞台より姿を消すが、著者はこの精霊が芸能・技能の守護神「宿神(シュクジン)」として力強く生きつづけたと考える。著者のフィールドの世界観は圧巻。
縄文への旅程
★★★☆☆
中沢新一「精霊の王」を読み終える。もう一度目を通すつもりだ。室町中期、能楽の金春禅竹による「明宿集」なるお話をもとに「後戸」というキーワードをもって自然の内奥の力と、それを整序する権力の関係がこの書のテーマと言ってよいだろう。
その本筋の傍らに、一貫して、自然の内奥の力を縄文の「野生の思考」に見いだしたいという強い著者の欲求が流れている。が、しかしそれを直球で求めるのは困難なことは重々分かっている。ひたすら地道な神話の構造の比較検討のなかからなにかを浮かびあがらせるしかない。かくして、縄文の「カミ」とでも言える「宿神=シャクジ」(「シャグジ」を正面から扱った柳田国男の「石神問答」は彼の民俗学形成の端緒となった)という存在が芸能・技能を媒介にしつつ、生き残っている姿を突き止める。そして、さらにそれが国家のシステムとの関係において日本の東と西(長野の諏訪においてはミシャグチ信仰が公然と存続しているように、東方面では鎮守様の片隅にひっそりと佇んでいる。一方で、国家システムの管理が周到になされた西の方面では「シャグジ」は表面ではことごとく消滅しているが、実は被差別部落の地域の鎮守様として存続している)において扱いがことなっていることを証左に、自然の内奥の力=宿神=シャクジの姿をあぶり出しているのだ。では、はたして縄文の野生の思考が浮かび上がったか・・?さてさて。
私にとって、この書物はおもしろかった。沖縄の斎場御嶽(セーファ・ウタキ)へ行ってあらためて、山、風、水、樹木に宿っている力を全身で感じ、受け止め、そして、身もうろたえるほどの圧倒する「カミ」の力のシャワーを浴びた、そんな私にとって、この書物はどれもこれもビンビン伝わるものだった。が、もちろん世俗権力からの逃避的な結論には「やはり中沢くん」とも思った。