想像力の果てを駆ける埴谷節
★★★★★
第七章「最後の審判」は、最初はそんなに難しくなさそうだけど論が進むにつれて相当難解になっていく。「夢の王の王冠」の話のあたりからだ。存在と宇宙のあり方についての話が、結構抽象的だったりたとえようもなかったりして分かりにくい。第三巻まで来て、なかなか読み進められないところにぶつかる。
だが、物語の舞台がそもそも抽象的だったことが、ここでは存分に役割を果たしているとも言える。
ある人は、この物語の終盤は光に満ちていると書いていた。確かに、光あふれて人間らしい描写が終盤には特徴的である。作者はこの作品を書き続けることができて幸せだったのではないだろうか。あるいは、一般的な、気まぐれで本書を手に取った読者にしてもそうなのかもしれない。
嘗て少年たちの夢想の裡
★★★★★
中学校の卒業間近、人の来ない屋上に通じる階段の踊り場で、宇宙やこの光の反射で見える現実が全てであろうかと友人と語り続けた事がふと懐かしく思い出させられる7章です。
また最も吹き出すシーンが多いです。
昨年、雪深い霧積温泉で何故か養殖されていたテラピア(中東のガリラヤ湖の原産)が、本作中で焼き魚にされて喰われたことを訴えるのには因果さえ、感じてしまいました。
しかし途中で終わってしまっては困ります。
だいたい最後の晩餐にひとり欠けている。
多分私は作者の真意などお構いなしに楽しんでしまったのでしょう。
あらためて、一気に読める環境が好かったです。
埴谷の思いは私達に託された
★★★★★
Ⅰ・Ⅱを読んだ読者に本書の解説は無用だろう。最後の審判は釈迦とキリストを断罪した、新しい「生命倫理」の話。論理は極めて明快。釈迦のチーナカ豆とキリストの喰った魚と生まれずに死した胎児との対話は今世紀に語り継がれるべき問題であろう。さて、半世紀に渡って書き継がれた死霊は「完結」したのだろうか。Ⅰのはしがきでは「釈迦と大雄の対話」がクライマックスとして描かれる、とある。作者は遅筆であったから残念ながら、不本意の未完と言えるだろう。(死後、「群像」に発表された断章は本巻には収録されていない)しかし、はっきりいえることがひとつ。完結したと思える(思いたい)のは三輪与志と津田安寿子の「愛の物語」であろう。寡黙な与志を安寿子はひたすら理解しようとつとめる、そして第9章で(ネタばらしはしない)その結末は迎えるが、私としてはそれで納得の行く終わり方だと思った。埴谷の与えた課題は私達に引き継がれた。
埴谷は好きだけれども
★★★★☆
埴谷は好きだけれども、どうしてもドストエフスキーの模倣が多い気がしてたまらない。(勿論埴谷独自の部分もあるけれども)三輪家が象徴としてある。=カラマーゾフ家。両家の父は放蕩者で隠し子がいるところおまけに4兄弟!!≪最後の審判≫と大審問官の酷似。ブントでの殺人・・・といたるところにありますが、これらは埴谷が意図的にドストエフスキーとの対決の為に用いたということにもなるんでしょうけれども、僕の読みが浅いせいかそう感じられない部分もある。なんだかんだ言ったけれども埴谷最高!!
形而上小説
★★★★★
未完に終わった『死霊』ですが、もう続きが書かれない以上、完結した作品と
考えて読んだ方が良いでしょう。ドストエフスキーの『悪霊』の影響を強く受けながらも、独自の埴谷美学とでもいった奇怪な観念に彩られたこの作品は、他に類のない小説としていつまでも読み継がれるはずです。