このエッセイでかるく触れられている指輪(女性が毒を盛るときに使った薬隠しの付いた骨董品)が欲しくって仕方なくなりました。
これも、森茉莉の美しい文体の効果でしょうか。
枯葉の寝床 は、まさに森茉莉の本領発揮といった作品で、文章の隅々まで森茉莉の美意識が詰め込まれているようでした。
マフラーやジャケットという単語ひとつひとつがなんでああも美しく見えるのか。流石です森茉莉。
色彩の描写も細かくて、そんな、主人公が着ている服のカラーコーディネートなんてどうでもいいじゃないの、と思ったりもするのですが、圧倒的な森茉莉界の効果か、気付けば色彩を想像しつつ読み進める自分がいました。
少しの例外を除いて、とにかく、あらゆるものが美しいです。
童話のお姫様的な自覚のない美貌でなしに、自分の美しさを計算に入れて人を魅せる、小憎らしい美しさです。
わかっていながら、とりこになってしまう森茉莉感たっぷりの短編だと思います。
ただ、3つめの短編「日曜日には僕は行かない」が、枯葉の寝床と設定そっくりなので、耽美な世界に食傷ぎみになったのがもったいなかったです。
そして残念ながら「甘い蜜の部屋」をこれより先に読んでしまっていたので、評価は★★★です。
男が読むとき、これは間違いのないホモ小説である。決して「耽美」と括って逃げ切れるような代物ではない。
すでに江戸時代に、衆道は『田夫物語』『色物語』『男色大鑑』にあるように男の嗜みとして扱われていた。また庶民の生活では、赤松啓介の「夜這いの性愛論」にあるとおり、各地で夜這いが行われていた。
明治期に入って、色事が大好きな我ら日本人は西洋紳士、貴婦人と同じように、性的にも清い存在とならなければならなくなった。その時に編み出されたのが「女学校」という装置だったのだろう。
ところで急に性的な抑圧を受けた淑女女学生には、明治時代には「をでや」「をしんゆう」などのレズビアンな関係が見られるようになる(「下等百科辞典」を参照のこと)。
本書は、そうした淑女たる女性が男の嗜みとしての衆道に対して向けた旺盛な想像力によるものと推測されるし、そう読まれることは、たぶん間違いではないだろう。つまり、ヤオイである。男の自分には、そう見える。
若い読者は、栗本薫氏の作品や栗本氏が育てられプロとなった作家の作品を主に読んでいる事と思うのだが、多分、栗本氏以前にこの分野の先駆者となったのは著者しかいないのではないかと私は思う(昔の純文学には、男性同性愛的雰囲気がうっすらと感じられるものが結構あるが)。
その著者の晩年の私生活をメタフィクションとして描いたエッセイ的要素のある「薔薇くい姫」。これぞ元祖、と言った感じがして、その余りの耽美さに、や㡊??いモノは苦手な私は読了こそしたものの退いてしまった「枯葉の寝床」と「日曜日には僕は行かない」。
現在、やおい小説を読み、いつかは自分もこの分野の作家になりたいと思う人は、間違いなく読んでおいた方がいい作品だろう。