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中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて

価格: ¥1,785
カテゴリ: 単行本
ブランド: 亜紀書房
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中沢さん好きなら読んで損は無い ★★★★☆
中沢先生の主義主張はグルメじゃなく薬であり、作用があれば当然副作用もあると。そういうことですね。きちんと裏も読めよと。中沢先生は政治活動家や宗教家ではなく一学者や文筆家なわけですから思想の裏にどのような背景があろうが無かろうが、書物が面白ければ一読者としては一向に構いまないと考えます。それがアナーキーで世間の常識や制度と対峙しようとも、です。特に人文系ですし。ただ、自身が深く関係していると自覚している問題に対して我関せずってのはどうなの?という疑問なのだと受け取っています。それはそんな気がしました。ただ、、、う〜ん難しいですね。
島田先生の文章は理路整然として読みやすいですし、日ごろ中沢先生の本をよく読んでいる方なら手にとって損は無いでしょう。中沢先生の批判部分だけではなく、宗教的テロリズムを正当化している件の主張はいろいろと深い問題をはらんでいると思います。
言いがかりでは? ★★☆☆☆
私は高校生時代から中沢新一の著作を読んで深く感銘を受けたのですが、テロに関する思想を刷り込まれたとはまったく思いません。 確かに中沢新一の著作はエッセイ的かつ空想的で現実的な問題(貧困、環境、教育、ジェンダーなど)を直接解決できない小説じみた思想本です。あまりまともに受けとるべきではないでしょう(高校生のころはかなりまともに受けとっていましたが)。しかし、他者(動物、植物など)への共感を古代の神話を通して語った点では非常に新鮮な視座を私に与えてくれるものでした。太田氏との対談でも殺人を肯定する文脈には受け取れませんでした。 中沢新一はじっさいオウムというテロ組織を作り上げ不穏な思想を構成員に吹き込み指導したのでしょうか?そうであるならばテロリストとして糾弾されてしかるべきですが、この本を読んでも事実がどうなのかさっぱりわかりません。この程度の発言しかしていないのであれば、テロを実行した人間が全面的に責任を負うべきです。 中沢新一にオウムについてまともに語ってほしいという思いは確かにありますが。 でも人をたくさん殺すなんてことが一個人の発言でお起こってしまうことでしょうか?ほいほい真に受けるほど人間はアホですか。恐るべきことに、テロをする人間はやりたいからそれをするんです。教育がそれをどうにかするのが重要でしょう。
というかまず世の中にもっとある危険な表現物をどうにかすべきでは?
思考停止が宗教的テロリズムの一因だが、雰囲気からの類推で断定するのは危険 ★★★☆☆
『ブッダが考えたこと』(宮元啓一著)が指摘するように、ブッダ釈尊がアーラーラ・カーラーマ仙人の無所有処定とウッダカ・ラーマプッタ仙人の非想非非想処定を体得しながら捨てたのは、「思考停止の瞑想=三昧(サマーディ)」だったからである。厳しい修行により思考停止の境地を体験できるようになったとしても、日常生活に戻った人間が思考を開始した途端に、凡夫に逆戻りするのでは意味がないからである。ブッダ釈尊は思考停止の瞑想を四無色定に限定して阿羅漢の休息瞑想に割り当てたが、ヒンドゥー教の拡大と共に仙人の瞑想である三昧(サマーディ)は一般に広まっていったと思われる。
『チベット密教の瞑想法』(ナムカイ・ノルブ著)によれば、釈尊滅後の2世紀後に北西インドのガーラップ・ドルジェが仙人からゾクチェンを学び、それを西インドのマンジュシュリーミトラに伝授し、さらに中国人の弟子であるシュリーシンハに伝えたとある。従って、ゾクチェンは仙人から学んだ無所有処定や非想非非想処定だと思われる。実際に、シュリーシンハの教えは摩訶衍に伝えられ、摩訶衍が「不思不観」(i.e. 何も思ってはならず行ってもならない、という無念・無想・無作意による悟得の教義)をチベットで広めた際にインドのカマラシーラに論破されているが、中国では南宋禅として復活し、チベットではゾクチェンとして復活したのである。そして、不思不観の境地は、禅の「喝!」やゾクチェンの「パト!」といった驚愕した時の思考停止として利用されたり、性的快感に伴う思考停止の目的で密教の大楽思想やチベットの性的ヨーガとして採用されている。
現代では、激しいロックやジャズ音楽やダンス等でも驚愕や快感をもたらす思考停止が起こる。そうした思考停止状態に暗示が組み込まれると宗教的テロリズムに誘導されることもあろう。しかし、中沢氏と対話することなく、彼の発言の一部から類推して雰囲気から極端な結論を導くのは危険である。
ユーモアには欠けるけど、まっとうな本です ★★★★☆
 たまたま最近、88年春の「中沢事件」に関する暴露本を読んだのと、著者と同じ53年生で東大宗教学科で同級生として学び、つまり中沢新一の後輩にもあたる四方田犬彦が『人間を守る読書』中で本書を好意的に取り上げていたのに背中を押され、手に取った。陰謀論系の議論にも似た強引な推論もあって必ずしも全面的に受け容れるわけではないが、確かに一時代を築いた中沢という手ごわい相手に、正面からぶつかって善戦している。特に最後の第6章「宗教学者としての責任」には、著者が中沢を問題とする理由が説得的に示されていると思う。
 因みに先行レビューに「いくら何でも中沢だって、オウム的なものの存在意義と、彼らが実際に仕出かした犯罪は切り分けて考えているはずだ」という文言が見えるが、こういう「ジョーシキ人の思い込み」を、中沢という人はそれこそユーモアたっぷりにからかってみせるに違いない。ただ本書の著者の批判はもう一歩先にあって、たぶん中沢は「ジョーシキ」を軽やかにからかい、その神経を逆撫でするような言葉を漏らしつつも、決して自らは手を汚さない。確かに中沢は、「切り分けて考えているはずだ」、なのだ。
 今回気づいて驚いたのは、中沢が高橋源一郎と同学年だという事実(ただし高橋は51年1月の早生れ)。そして2人とも高校卒業の69年、東大入試中止にぶつかっている。高橋は京大に落ちて横国に進学し、中沢は詳細は知らないが一旦は早大に進み、翌年東大理2に合格。そして2人が大学生としてよど号ハイジャックや浅間山荘事件を目の当たりにした頃、本書の著者は高校生だったことになる。これは、両者の隔たりを考える手がかりにならないだろうか…
オウム事件の総括をお二人でしていただきたい ★★★★☆
中沢さんの本は網野善彦関連(中沢氏の叔父)で何冊か読んだ。けれども彼のチベット密教やその他宗教的な本はまだ読んでいない。
島田氏は中沢氏の東大ゼミの後輩であり書簡のやり取りもあった仲でもあるようだ。島田氏がオウム事件でのパッシングで教職を失ったことはおぼろげに記憶しているが、中沢氏がオウム信者の教義的支えになるような著作があるとは知らなかった。小市民的な文脈ではオウム事件の本質が何処にあるのかが未だによく分からなかったので、本書はその一端を示してくれているようにも思う。島田氏が指摘するように現在、中沢氏はオウム事件に関して何ら包括的な考察なり自論を述べていないようである。是非とも公の場でオウム事件の本質に関して議論をしていただきたいものだ。