現代の「三四郎」(漱石)を書いてみたのか、私小説「僕って何」
★★★★☆
三田誠広の本で売れているのは、この「僕って何」と「いちご同盟」くらいか。
知名度の割にはその作品があまり知られてない作家である。
1948年生まれの著者より、10年以上若い世代がこれを読み終わっても、なぜこんな小説が芥川賞までとったのか理解できなくて、怪訝に思うだろう。
時代の変遷とは恐ろしいものである。
なにも説明がなければ、こんなありふれた男をなぜ描かねばならなかったのかまったく理解できない。
この作品を評価する前に、理解しておかなければいけないことが2つある。
第一に、18歳にして「Mの世界」で文壇デビューした筆者がその後、大学生、サラリーマン時代を通じて、
難解な哲学小説、(つまり必然的にこれは“自分とはなんぞや”というテーマになる。)を書こうとしていたこと。
第二に、著者自身が学生であった頃はいわゆる“学園紛争”時代であり、この小説もその時代を背景にしており、
これが発表された1977年頃は日本の文壇にはまだその名残が強く残っており、肩肘張った「男」像が時代の規範であったということ。
この二つを背景として、当時としては珍しい軟弱で世間知らずで、その上どことなくお坊っちゃん風の「僕」を
主人公とすることにより、あの頃の社会を描写するとともに、
タイトルの「僕って何」という哲学テーマをポップな形で提出したのがこの作品で、
これが当時としては衝撃であったということなのである。
あとがきにあるように、文学者としての道を半ばあきらめざるを得ない状況にあった彼が、
編集者に助けられてなんとかこの小説を作品として発表し、
結果として芥川賞を受賞し、文筆家として創作活動を持続できるようになった。
三田としては、本当は、特定の時代にだけ通用する人間観ではなく、
時代をも突き抜けるものを書きたかったのではないかと推測する。
優秀な頭脳と豊かな教養をもった都会人の三田は、その世俗性のなさ故に損をしているのかもしれない。
自己のアイデンティティーは、硬く保ちにくいのが人間
★★★★★
この話しは、青春の時期の成人とも未成年ともつかない立場の自己の心の喘ぎが書かれてるな、と思いました。
全共闘世代だって、全共闘自体がまとまったモノではなかったんですね。大学に入って、いやいやながら成り行きで、B派に所属してしまう『僕』。恋愛のほうが大事なのか、自分で決めて何派にも属さないという態度を公言することの方が大事なのか。
後半では、実母が学生運動の成り行きを心配して田舎から出てくる。結局、『僕』とは、親に心配され、経済的にも自立していない半人前なのか…、という当時、大学生の主人公の述懐。
これは、何も学生運動に限ったことではない。それぞれの年代に、また、それぞれのこういう安定しない心の青年期があると思います。
爽やかな読後感を残す文学でした。
日本の「左翼」のアホらしさを笑ふ為に
★★★★☆
1956年生まれの私は、自分より少し上の世代の人達が没頭した言はゆる「学生運動」に、全く共感した事が有りませんでした。−−その事を、私は誇りに思って居ます。−−その私には、この小説は、良く書けた風刺小説だと感じられます。(主人公の恋人など、この世代の、学生運動にはまった女性の嫌な性格が良く描けて居て、笑へます。)若い人達は、この小説をどう読むでしょうか。
(西岡昌紀・内科医/ハンガリー事件から50年目の年に)
僕って……ほんと何でしょう?
★★★★☆
たぶん純文学なんだろうから芥川賞ももらっている『僕って何』。扱っているのが学生運動ってことで時代は感じますが、読み応え、面白さは陳腐化していません。諷刺のスパイスが利いているからでしょうかね。
現代人から見ても等身大の主人公が葛藤し、対立するグループ同士の抗争も目まぐるしく状況が変化し飽きさせません。まあ必ずしも立派な思想の旗を振りかざして学生運動やってた人ばかりじゃないってことですね。
こんな彼が、しっかりした年上の女性と同棲なんかしてそれなりにやって、ああいやヤっているのですから、状況に流されながらもちゃっかりしたものです。だから変な閉塞感や絶望感が無く、ユーモアを味わいながら楽しく読めます。
一番の名(謎?)場面は、主人公が買物をしに薬局へ行こうとするシーンでしょうね。ここばかりは学生運動の時代でも現代でも変わらぬ若者男子、の姿が描けていて微笑ましいです。