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赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

価格: ¥620
カテゴリ: 文庫
ブランド: 中央公論新社
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とても面白い ★★★★☆
「赤頭巾ちゃん気をつけて」「ライ麦畑でつかまえて」というように題名も語感が似ており、語り口調もライ麦〜にそっくりなので、スタイルとしては似せて書いたのだろうと思えます(著者は否定しているようです)が、内容はまったく異なります。
文章は洗練されていて、とても面白いです。若い主人公が、いろいろ苦しみながら、社会へ向けて自分のあるべき姿を追い求めるという内容ですが、やはり最後は美しいと思いました。
この作品は「ライ麦〜」と比較されてしまうことが多いですが、まったく別の作品として評価すべきだろうと思います。
背景知識を少し。 ★★★★★
この小説は、18歳の少年が書いたのではありません。

既に東大を卒業して10年近く経った、30歳の青年が書いたのです。

(現在でいえば、40歳ぐらいの感覚でしょうか。)

小説内の世界は、すべて著者によって計算されつくして

創り上げられたものです(著者自身の言葉によれば、

あることないこと、ではなく、「ナイコトナイコト」)。


この小説が芥川賞を受賞した時の選者の一人、あの才気の塊

三島由紀夫も、はたまた老獪な文人 林達夫も、庄司薫氏の才能に

舌を巻いた様子が、当時の選評や伝説からわかります。

もちろん、彼らも庄司氏が、かつての中央公論新人賞受賞作『喪失』の

著者 福田章二氏だということを知っており、三島氏の推薦文

(昔 この本『赤頭巾ちゃん』の裏表紙に印刷されていました)

などによると、ほとんど庄司氏を自分と同格扱いにしていたことが

見て取れます。

当然サリンジャーの単なる模倣なら、芥川賞の候補にもならなかった

でしょうし、4部作が出版されることもなかったでしょう。


現在の読者には、やや誤解されやすいようですので、

以上、当時を知る者の一人として、おせっかいながら。

もしかしたら同じように思った人がいるかもしれない ★★★★☆
これを読んで、かつて90年代の小沢健二さんの姿
歌詞や言動、キャラクターを思い出しました。
フリッパーズ〜オザケン時代の。
彼、何十回となくこの小説を読み返しただろうな、
この作品に思い入れあるだろうな、と。

個人的にはそういうのもわかって
「とても嬉しかったんだ。」
というところです。
本質を見つける季節 ★★★★★
 主人公は、当時闘争の真っ最中だった東京大学に行くことをやめます。小説内の短い期間内を足の親指の爪をはがすという軽傷を負ったまま、彼女と電話したり、知り合いの愚痴を聞かされたり、女医さんに誘惑されたりと、何ということもない生活を過ごします。
 彼はあまり悩みにふけらず、比較的明るい青春を過ごしているように思えます。だが、周囲と自分が合わないことに嫌気がさしていて、
 「なんだかうまく言えないのだけれど、でも考えてみればこういうことは、やはり実はもともと他人に言ってもしようがないこと、そのことをしゃべろうとすると、どうしても自分にきり通じないような言葉でしか話せないっていったようなことなのかも知れない。」
 と言ったりします。
 当時はまだ戦後派的、実存主義的な風潮があったようです。
 乱痴気騒ぎで自分の「実存」を確認する人々がいたり、ドストエフスキーやカフカがはやって、主人公がシェイクスピアやゲーテが好きだといったりすると「俗物」と思われたりします。
 学生闘争のさなか、高校で素直な学生生活を送ることさえ俗っぽいことのように思われたりします。
 そんな風潮は、実は生きる上での大事な本質を主人公に教えてくれていない。そして彼は何に本質を見いだすか。それが終わりの方で出てくる「あかずきんちゃん」を買う女の子なわけです。
 「刺激の絶対値さえ大きければ何でもいいんだ」というような芸術論よりも、小学六年でメンスが来たことを教えて、守ってほしいという女の子の方が大事なんだと、そういう分かりやすい本質的目標を、この本は語っているわけです。
高校生や大学生に読んでもらいたい ★★★★★
 日比谷高校3年生の薫くんは1969年東大入試中止のあおりを受けて、どうしたものかと日々を過ごしている。2人のお兄さんは東大法学部。下の方のお兄さんに「悪名高い法学部は何をやっているのか」を尋ねたら「なんでもそうだが、要するにみんなを幸福にするにはどうしたらいいのかを考えているんだよ。全員がとは言わないが」とえらく真面目に答えて、薫くんに法哲学の本とガリ版刷りの思想史の講義プリントを貸してくれる。薫くんが夢中でそのプリントを読んだそのすぐ後で、兄と2人で銀座を歩いていてその思想史の講義をした教授にお会いする。そこで先生は気軽に2人をお茶に誘い、話が弾んで、食事、お酒と夜中まで話が続いてしまう。そこで薫くんは以下のように感じる。

 「どう言ったらいいのだろう、たとえばぼくは、それまでにいろいろな本を読んだり考えたり、ぼくの好きな下の兄貴なんかを見ながら、(これだけは笑わないで聞いて欲しいのだが)たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものをめざしていくものじゃないか、といったことを漠然と感じたり考えたりしていたのだけれど、その夜ぼくたちを(というよりもちろん兄貴を)相手に、『ほんとうにこうやってダベっているのは楽しいですね。』なんて言っていつまでも楽しそうに話し続けられるそのすばらしい先生を見ながら、ぼくは(すごく生意気みたいだが)ぼくのその考えが正しいのだということを、なんというかそれこそ目の前が明るくなるような思いで感じとったのだ。そして、それと同時にぼくがしみじみ感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだというようなことだった。つまりその先生と話していると、このぼくまでがそのちっちゃな精神の翼みたいなのをぼくなりに一生懸命拡げてとびまわり出すような、そんな生き生きとした歓びがあったんだ。そしてそんな自由でのびやかな快感に酔うと同時に、ぼくはうんと勉強して頑張って、いまにこの先生をワアーッと言わせてやるぞ、なんてえらく緊張してファイトを燃やしちゃって…」と文庫の改訂版の39ページにして、知性の飛翔を描写するこのすばらしい文章が披露されている。
 この文章を読んで、私の疲れていた知性も飛翔できた。知性って、こういうものですよね? 今の日本で求められているのは、こういう文章じゃないのかな? 庄司薫くんシリーズ全4巻、中公文庫で改訂版が2002年11月に発売になった。高校生や大学生に読んでもらいたいです。