東京都立日比谷高等学校1969
★★★★★
08年の今、本書を再読すると、日比谷は本当に特別な学校だったんだなあと、改めて思
う。もちろん今も大学入試は続いているし、世に進学校はたくさんある。しかし、入試が
あり進学校が存在しているからといって、薫くんと由美ちゃんの恋愛があるわけではない。
唐突ながら、寺山修司を連想した。「快楽にとって一番大事なこと。それは躾である」(奴
婢訓)というアフォリズムである。山の手というロケーション、高度経済成長の終わりと
いうタイミング、東京の公立高校のエリート教育。これらの要素が、この特別な恋愛を演
出している。
…たとえば門のかげかなんかで待伏せして、ワッ、キャッ(これは彼女だ)なんてやって
みる種類のアイディア(そしてもちろんテレビだと、キャッのあとで彼女はバカァなんて
言ってぼくの胸にとびこむわけだ)…
幼なじみの二人は、このワッ、キャッができないわけではない。小説冒頭のこの場面では
しないが、中盤で主人公の友人の小林や横田の前ではきちんと「ガールフレンド」の型を
そつなくこなしてみせる。オドカシッコをする二人の友人たちにしてもそうだ。受験勉強
に邁進するだけではなく、マルクスも読めば、一方で水前寺清子を引用することも忘れな
い。
薫くんは小説の存在だけれど、1969年の日比谷高校には、そのバーチャルな人物の脇
に、目付の鋭い実在の日比谷高校生がいて、騒がしく議論をしたあげく学校をやめていっ
たりしたはずである。
薫くんについては、日比谷高校中退の内田樹先生を一つのロールモデルとしてみれば、そ
の後の展開の想像がつく(福田章二さんも内田樹さんも、お二人とも不満でしょうが、読
者というのはこういうものです)。
問題は下条由美さんの方だ。物語の末尾で、ぎこちなさという換え難い徳をもって薫くん
を誘うことのできた由美さんが、その後の30年をどんなふうに生きたのか。どんな女性
になっているのか。08年の今、本書を読むとそういうことを考えずにはいられない。
ひょっとして「ダロウェイ夫人」ってそんな小説なんでしょうか。
みごとな文学的達成
★★★★★
これほど確信犯的に人生と自己を戯画化した若手作家はかつていなかった(そしておそらくこれからも)。俳諧的なみごとな文体と華麗な筋運び、軽妙洒脱な会話体とモノローグ。書くことと生きることとをどのように結び合わせるのか、著者自身の煩悶が主人公に高踏的に反映されていて、しかも構造的に良く練られた夏目漱石クラスの画期的4部作である。本4部作の良さがわからない読者は、残念ながらノーベル賞クラスの一流文学の素晴らしさの恩恵から一生無縁の人間である。三文娯楽小説を抱いて火葬場まで行けばよい。
死の尊厳を感じる二人
★★★★☆
「色」シリーズの2作目。本作では、ある老人の死を通して、死の尊厳と生きる事の意味を薫と由美が学んで行くという話。本作を読んだ時、作中の薫と私はほぼ同時代・同年齢だった。薫が受験浪人している時に、私は多分高校3年だったと思う。前作では世間の騒然とした雰囲気の中、薫の内面を中心として描かれていたが、本作では視線が少し外に向くようになった。
死期の迫った老人を世話する由美。あくまで優雅に振舞うダンディーな老人。しかし、由美は老人の下の世話までしていたのだ。そして老人の死去。「汚い、汚いのよ」と叫ぶ由美。薫に「抱いて」と迫る由美。そして、薫は...。
「色」シリーズを読む前に「喪失」を先に読んでいた。硬質な文体と自分の頭の良さを見せ付けるような全体構成。本シリーズを読み始めた時に、そのギャップに戸惑ったものだが、どうやら本シリーズは「喪失」で描いた人間性の喪失とは逆に、人間性の回復をテーマにしているように感じられた。中村紘子さんとの結婚の後は、すっかり髪結いの亭主になってしまった作者だが、もっとたくさんの作品を読みたかった。
由美ちゃんにシンクロ。
★★★★☆
死を身近に感じることによって不安と、焦燥感に絡めとられる女の子たち。そんな女の子に翻弄されつつ、わりと冷静に事態を分析している薫くんに、男らしさを見る。薫くんの純粋さが眩しくもあり、忌々しくもあり。男の子を脱して男の顔を見せるところにははっとさせられるけれども、それは私が女だからなのかな。男の子から見ると、由美ちゃんの「脱皮」のが印象的かも知れません。