映像化された「銀河鉄道の夜」、ワーナー映画「コンタクト」について
★★★★★
科学と信仰。カール・セーガンやロバートゼメキスは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んだことはないのでしょうが、ワーナー映画「コンタクト」と「銀河鉄道の夜」はどこかに通い合うものを感じます。なぜでしょうか?
賢治は妹トシが病没後「銀河鉄道の夜」の執筆に取り掛かったといいます。賢治は幼少より濃密な仏教信仰の中で育ったといいます。彼は農学者であり、また信仰の徒でもあったのです。ワーナー映画コンタクト [Blu-ray]のヒロイン、ジョディー・フォスター演じるエリー・アロウェイが宇宙の果てのペンサコーラで再会した父。畏怖すべき「大いなるもの」の一部である人間の貴重さを体現し、科学も信仰も真理を追い求める手段だと物語りは結びます。キッツに証言をなぜ撤回しないかと詰め寄られ、抗弁するエリーはいいます。「科学者として証拠はなく幻覚かといわれれば、認める。しかし証言を撤回することは出来ないのです、自分の存在が真実だと告げるから、」
オッカムのかみそりはこれからも歳月を重ね、真理を求める人々の疑問をそいでいくことでしょう。
賢治は物質や生命の誕生のメカニズムに関心を寄せていた人だといいます。ワーム・ホールも銀河鉄道も親しい人への想いにより開かれた「真理への階段」なのかもしれません。
1985年本作は劇場用長編アニメーションとして公開されています。
演出のの杉井ギサブロー監督は虫プロ時代より「鉄腕アトム」より参加し「タッチ」や「まんが日本昔ばなし」などで秀作を作ってきた方です。
この「銀河鉄道の夜」は原作の情感溢れる言葉使いを、見事に映像化しています。優れた映画というものは、いくつかのベクトルが同じ方向に向いたとき、相乗効果をあげるといいます。
ますむらひろし氏の猫をキャラクターに採用し、細野和臣さんの淡々とした音楽。
劇伴としてとても優れています。当時、抜群のうまさを誇った田中真弓さんのジョバン二役も適役でした。特にラストの「カンパネルラー!」は田中真弓ちゃんの一世一代の芝居だったと思います。
当然原作の面白さもさることながら、今後映像化される度に本作の「銀河鉄道の夜」は比較される対象になる筈です。ただ、最近知り合いの小学生に見せたとき「むずかしかった。」と言われてしまいました。
夏休みの夜に、ぜひ見て下さい。
恢々にして漏らさず
★★★★★
宮沢賢治の童話をまとめて読むのは初めてである。もちろん、「セロ弾きのゴーシュ*」(高畑勲監督のアニメ映画もお勧め)「どんぐりと山猫」のように折にふれ何度も読んだ作品があり、「銀河鉄道の夜*」「風の又三郎」「注文の多い料理店」「やまなし」のように懐かしくなると手に取る作品があり、「よだかの星*」のように学校で習った作品がある(*は本編所収)。詩集を含む全作品を集めた本も、ずいぶん昔から書棚にある。にもかかわらず私が彼の童話をまとめて読む機会がなかったのは、ひとえに私がそれらに「値しなかった」からに過ぎない。現代の生活のレールに乗っかって一目散に駆けているとき、彼の作品は心に届かなかった。素朴な表現の奥に潜む深淵を覗き込む心の余裕を持ち得なかった。文学との邂逅は任意にできるものではなく、相応の準備が自分の内に整ったとき、初めて可能である。それがいつ訪れるかはわからない。私にとって、それは今訪れた。
現代に流行の緻密な構成ではなく、むしろ粗に過ぎるように思えるのに、賢治の童話には強いインパクトがある。破調ながら、あるいはそれゆえにこそ印象に残る言い回し、簡素だが宇宙的な奥行きをもつ物語。賢治が求め、確かにある程度まで到達し得た宇宙の真理に一体化するような境地が、それぞれの物語に、さまざまな形で顕現する。すべての物語に、神あるいは仏が、それぞれ形を変えて宿っている。
いろいろな解釈ができるだろうし、それを誘うような魅力もある。しかし、賢治の童話は一律な「解読」を許さないように私には思われる。恐らく読者が作品から受け取るメッセージの多様性は近年の底の浅い物語のそれと違って著しいものであろう。しかし、気を衒った珍説・奇説で自己顕示欲を満たそうとするような評論を私は認めない。その点で本書の解説に紹介された評釈のいくつかは、私には理解困難であった。
忘れていたもの
★★★★☆
「双子の星」「よだかの星」「カイロ団長」「黄いろのトマト」「ひのきとひなげし」「シグナルとシグナレス」「マリヴロンと少女」「オツベルと象」「猫の事務所」「北守将軍と三人兄弟の医者」「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」「飢餓陣営」「ビジテリアン大祭」といった14の作品を収録しています。どこか物悲しく、切ない雰囲気を持つ作品が多く収録されています。忘れかけていた何かを思い出すきっかけになるのではないでしょうか。たまには、立ち止まってみるのも悪くはないのかもしれません…。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
銀河鉄道はなぜ南に向かう
★★★★☆
本書は童話形式を借りた近代小説である。従って叙述が含蓄する意味は探らねなければならない。
この物語を一種の臨死体験として読むことが可能だろう。親友を失ったジョバンニは悲しみの余り仮死状態となり、カムパネルラと銀河鉄道で再会する。他にも身なりの正しい大勢の客が静かに乗っている。列車は「不完全な幻想第四次」空間の銀河に沿う線路を北十字星から南十字星に向かう。銀河に舞い降りる様々な鳥はそのほとんどが星座名に見ることが出来る。
途中で沈没した汽船で死亡した姉弟と家庭教師の青年が乗ってくる。青年は二人を母親がいる天上に連れて行くのだという。銀河は天国につながる回廊になっているのである。カムパルネラの母も既に死亡している。このことは、天国に行く順番は親から子へといった「正順」であるべきだとの意味を持つ。だが父親は考慮されていない。天国は永遠の安らぎの場としての子宮「回帰」の含みを持つ存在になっている。ジョバンニの母親は病気ではあるが生きており、彼の天国行きは拒否される。
なぜ銀河鉄道は南行するのだろうか。北十字星(白鳥座)では科学者によって化石が採掘されており、進化論信奉を思わせる。だが標本を学校に寄付したジョバンニの父親が嘲られているように、科学万能で人は救われない。救いは別の所にあると語りは暗示する。その方角は南である。
列車が南に行くに従って、賛美歌三〇六番、メサイヤ、新世界交響曲(これをドボルザークの「新世界交響曲」と受け取ってはならない。あくまでも「新世界」を讃える交響曲である)が聞こえてくる。「そんなんでなくてたったひとりのほんとうの神様」が執拗に語られる。たった一人の本当の神様はイエス・キリストであり、裏返せば、キリスト以外の神はすべて偽の神ということである。列車は南方にある聖地イスラエルに向かっているのである。実に唐突だが、ここだけが物語の主が言いたかったことであり、作者の必死の信仰告白であり、他の部分は全てその装飾符だといって良い。
臨死体験は夢のようなものである。だが「地上」に戻ったジョバンニが探すべき「ほんとうのほんとうの幸福」とは、帽子の老人が諭したように、万物が流転する中で変わらないもの、カムパルネラが命を投げ出して友だちを救った愛、家庭教師が他の乗船客を救うために自らをあきらめた愛、つまり自己犠牲の「愛」であることだけは確かである。
すべてのいきものへの優しい眼差し
★★★★☆
名作「銀河鉄道の夜」他、「よだかの星」「シグナルとシグナレス」など全部で14編を収録。
すべてのいきものはみんなきょうだいで、「カイロ団長」の言葉を借りて言えば「すべてのいきものはみんなかあいそうなものである」、みんなの「ほんとうの幸い」を願うという、宮沢賢治の優しさに溢れた中短編集です。
本書の中心を成す「銀河鉄道の夜」(本書では第四次稿までの全てを参考にしています)には、その賢治の、世界に対する真摯さみたいなものが本当に強く描かれています。病弱の母と暮らすジョバンニは、ケンタウル祭の夜に、気がつけば親友のカンパネルラと乗っている。そこで様々な人々や情景と出会うという、あまりにも有名な物語。水の無い銀河の「水素よりもとうめいな」美しさを始め、全てが何かの暗喩のような、賢治独特の感性で綴られた、自己犠牲と原罪を問うた日本童話の金字塔。必読です。
今から約100年も書かれた作品にしては読みやすい物語だと思います。ルビも結構振ってあるし。
学生さんの読書感想文などにもオススメ。