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戦争の罪を問う (平凡社ライブラリー)

価格: ¥840
カテゴリ: 単行本
ブランド: 平凡社
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「戦争責任」を巡って―「国家」に罪は問えるか ★★★★★

 8月15日という日は、当然ながら私たち日本人にとって特別な日であることは言うまでもない。こうした日に、20世紀における実存哲学の泰斗、カール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers,1883‾1969)の『責罪論(戦争の罪を問う)』を静かに読み返してみるのも悪くはないだろう。本書は1945年から46年にかけてドイツ・ハイデルベルク大学の冬学期で行った連続講義の内容をベースに、「戦争の罪の問題」などについて論述したもので、含意をあまり理解されず、当時としては様々な議論を巻き起こし、非難も受けたらしい。

 この著作などが原因で、ヤスパースは1948年、スイスのバーゼル大学に移った訳だけれども、「西尾幹二が指摘したように、ヴァイツゼッカーなどの、その後の戦争責任論の方向を定めた書物であった」(佐伯啓思『現代民主主義の病理』p.120)ことは間違いのないところだろう。そして、佐伯教授のいう結果論ではあるかもしれないが、ポイントとして「ヤスパースの議論は、責任問題は基本的に個人のものであるとして、集団としてのドイツの罪を問われないような論理の道筋をたてた」(同pp.120‾121)ことにあるようだ。

 確かに、日本でも評判の高いヴァイツゼッカー元大統領の「荒れ野の40年」(1985年)の演説等を見ると、「国家・民族=集団」の「罪(責任)」は、結局「個人(自己)」に帰着する、といった思念が行間から読み取れる。ヤスパースは、この書物の中で「罪(責任)」というものを、「刑法上の罪」「政治上の罪」「道徳上の罪」「形而上的な罪」の4つの類型に弁別している。それぞれの内容は、直接当書を読んでもらうとして、それらの「引き受け手」が全て「個人(公民)」にあり、この点こそ「戦争責任」論の要諦と思われてならない。
哲学的「責任」論 ★★★★★
 本作では主として「戦争責任」を問題としていますが、戦争責任にとどまらず責任一般の哲学的考察といえると思います。
 たとえば電車の中で酔っぱらいに絡まれている人を見てみぬ振りをしたとき、刑事的な責任を追及されることはまずありませんが、見逃した人は間違いなく罪を犯しています。この責めに対し開き直って横柄になることは論外ですが、告白することも罪の清めにならないとヤスパースはいいます。罪を告白する人は相手も罪を告白することを望んでいるからです。
 ではどうすれば罪の清めはなされるのでしょうか。それは罪を自覚することだとヤスパースはいいます。企業や政府の不祥事の続く中噛みしめたい言葉です。
日本にも、かくのごとき評者がいたならば ★★★★★
カール・ヤスパースは、ドイツ人として、自分の同胞の経験したことについて、語っている。これは、1945年から、翌年にかけてハイデルベルク大学での講義録である。あの戦争について、冷静に、分析し、挙げるべきこと挙げ、考慮すべきことは何かを熟慮し、そのあと、一つ一つ丁寧に考慮していく。あたかも、ソクラテスの問答法のごとく、ソクラテスより、徹底して、誰にでもわかるように、ゆっくり確認しながら、論を進めていく。この姿勢に、ユークリッド原論に基礎を置いて発達していった、ヨーロッパの思想形式が見て取れる。前提とする原理を確認し、その原理を基に、人間全員が共有する推論のみを、論を進める道具として用いて、考えていく。したがって、その結果は皆の共有財産となる。

日本にとっても、ドイツにとっても戦争は大混乱であった。特に民衆にとっては。かれらはヒステリ状態であった。誰でも、食べるものがなく、常時見張られていれば、ヒステリになる。
戦争を振り返るには、ウォッチャーの力が必要だ。日本には、不幸にして、こういう人がい紹介されていない。とりあえずは、この論を当てはめて、戦後を考えてみてはどうだろうか。