キリスト教と仏教の邂逅を描く深いまなざし
★★★★☆
フランシスコ・ザビエル。
この名前だけは、歴女・歴男はもとより、多くの非歴史的思考を専らとする善男善女もご存知であろう。
かくいうレビュアーも歴史観など持ち合わせないにも拘らず、ザビエルの名を知っている。もう十年もすれば、“ザビエル禿”になるのとちゃうか? などという非歴史的、非理性的言辞を弄しているくらいだからな。何? 歴史的必然ではあるかもしれぬと? そう言えばそうか!
本書の読みどころのひとつ、いやひとつでなしに核心とも言えるのが、我が邦における仏教とキリスト教の歴史上初めての邂逅に触れているという点だ。
ザビエルは日本人に対して、<私が遭遇した国民のなかでは一番傑出してゐる>という印象を述べている。
近年何ゆえかベストセラーに名を連ねた『逝きし世の面影』の著者なら泣いて歓ぶ言辞である(この本が売れることはわかるが、中身には感心しない)。
<日本人は、相対的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じがよい。彼等の名誉心は、特別に強烈で、彼等に取っては、名誉が凡てである。>
一体、どの国の人民の話だ??? と今なら誰しもが訝るだろう。お気楽暢気な“ナショナリスト”さんが騒いでいるように日本国民は劣化したのか?
その疑問はひとまず措いておこう。
この書簡には真の意味での相対的な視点に立った遠くを見るまなざしがある。
日本人がキリスト教の何に驚いたのか? 弁神論に対する深い懐疑こそがその当のものである。
それは近世ニッポン人民の天地創造に対する素朴ながら鋭い視点であると末木文美士は『日本仏教史』(新潮文庫)で指摘している。
ここからは想像を逞しくする。「ザビエルが来た」ことは「マゼランが来た」ことに比することができるかどうかという問題だ。ニッポンのキリスト教信者は数%(1%程度か?)でしかないが、現代の我々のイデオロギー生産物へのキリスト教の“貢献”は決して小さいものではないのではないか???
まあ、愚考そのものであるが、南米を地獄の業火に焼き尽くした面の強い「マゼラン来訪」と、「ザビエル来訪」は、《来訪される側の論理》でもって追究してみる価値はあるかなぁ・・・・?
何より本書は、近世仏教(と、念のため限定しておこう)とキリスト教の格好の入門書になるのではないか? もちろん反宗教改革の先鋒イエズス会の巨人ザビエルの視点におけるキリスト教ではあろう。この件は、小難しいことを言い出すとお里が知れるのでこのへんで。
☆1減は文字の小さいこと。老眼で辛いのデスワ!
岩波文庫の「リクエスト復刊」はたいていそうだ。あと創元社推理文庫(の一部?)や新版化されていない新潮文庫も。角川文庫もそんな気がする。旧字体の頻出はあまり気にならないのだが。