それは、今の日本、日本人のありように、少なからず疑問をもっていることの裏返しでもある。
ザビエルのみた日本は、16世紀中頃、ちょうど織田信長が生まれる10年ほど前の日本である。日本に滞在したのはわずか3年、その間、本国へ書き送った書簡の抜粋から本書は構成されている。
書簡の中身はもちろん布教に関することばかりだが、そのかいまに、日本人の識字率が高かったこと、好奇心が旺盛だったこと、へたな神父では言い負かされるほど知的レベルが高かったことなどがうかがえる。
「坊主」への批判も手厳しい。ザビエルから見れば異教徒の司祭であるから批判的なのはもっともではあるが、その点を割り引いてみても、西洋的宗教観からは許しがたいほどの「堕落」があったのは事実のようだ。それでも、僧侶は一般人からは尊敬されていた、というのだから、このころの日本人は性にはおおらかだったのだろう。もっと正確にいうと、性をさほど悪いもの、罪深いものだとは思っていなかった。この点、西洋的宗教観とまったく異なる点が興味深い。
本書の著者ミルワードは、戦後来日して半世紀を日本で過ごした英国人だが、その50年間にも日本人は大きく変わったという。一方でフランス人は日本人を評して「ものが変われば変わるほど、日本人はますますもとのまま」というらしいが、要するに、16世紀以来、相変わらずの面とすっかり変わってしまった面がある。
日本人って、いったいなんだろう?
そういうことをこれまで真剣に考えてこなかったことが、恥ずかしい。
中学生になった息子たちに、伝えるべき日本とそうでない日本。そういうことをじっくりと考えてみたい。
日本におけるキリスト教信者数を調べてみると、ザビエル存命中には500-700名程度、1579年織田信長が安土に教会建立の頃キリシタン10万人、そして1587年秀吉のキリスト教布教禁止が出た。その後1597年の長崎26聖人殉教の頃にはキリシタン30万人、1612年領内キリスト教禁止で京都の教会破壊の頃にはキリシタン60万人、そして1873年明治政府キリスト教禁制解除時、キリシタン1.5万人という数字がある。ザビエルらの灯した明かりが60万人、一説には100万人にまで耀いた。
さて、フランシスコ・ザビエルについては小学校の頃から誰でも知っている。キリスト教を伝えに来た髭の生えたおじさんだと。とは言っても、似た外国人だともちろん識別できないが・・・。
ところがその後のザビエルの消息はどうだったのか?何歳ごろ日本に来て、何時まで日本にいたのか?その後どこへ行ったのか?何歳ごろどこで亡くなったのか?キリシタン禁令を知っていたのか?残念ながら本書を読む前は私には答えられなかった。これがこの本を読み始めた理由だ。
取り敢えずの目的は達せられた。しかし指摘しておきたい点が2点ある。ひとつは、文章が練れていない。はじめは外国人が日本語で一所懸命書いたので素人っぽくて好感が持てると思った。ところが訳者がいたのだ。今では多分何か意図があるのだと思っている。二つ目はザビエルの書簡の中の日本に関する部分をブツ切りにしているので、ザビエル全体の中の日本の相対位置付けが曖昧であることだ。
なお、本書に出てくるザビエルに日本行きを決心させたアンジロウは、日本では一般にヤジロウと呼ばれているようだ。
これはザビエルが日本にまで行って布教した熱意と裏腹のことであるが、彼がキリスト教を絶対視し、教義に厳格でありすぎたことも手紙から読み取れる。また、日本人が知識欲に飢え、理性的であるとする一方、風物に関する記述がほとんどないのは、日本の文化を見下していたからかも知れない。
ザビエルはしつこく質問してくる日本人に辟易していたらしく、僧ともずいぶん議論を重ねたようである。ただし、その質問の内容とそれに対する答え、また議論の中身などについては触れられていない。当時の日本人の思考がより良く分かったと思うこれらのことが記されていなかったのは、非常に残念である。
ザビエルが日本に来る前にマニラで日本人に日本のことを尋ねるくだりがある。この時答えた日本人は漁師であったのだが、その答えが実に哲学的であったので、ザビエルは日本に行くことを決める。
やはり、日本人の教養は、昔の方がかなり高かったのではないか。識字率であるとかは経済的にゆとりのある現代に近い方がよいだろうが、人々の教養は当時よりも今の方が低いのではないだろうか。
日本人が失っていったものを見つけてゆきたい。