星新一好きの人に
★★★☆☆
爆笑問題の太田さんが進めていたのを、なんとなく思い出して購入。一気に読んでしまいました。
時代を感じさせない文章で、そして設定が秀逸。
短編集ということ、文体、そしてオチのつけ方など、星新一を思い出しました。(全体としてはつながっている話ですが)。
この時代設定が、すでに現実としてもう目の前(1999年から2026年の間の設定)だと思うと、
その間の時代の変化なども想像してしまって、それもまた、面白いです。
宇宙への進出は、予想していたよりも、ゆっくりなようですが…。
夢があって、そして苦い現実も。
お子さんが読むのにもおススメだと思います。
奇跡的にあふれる情感
★★★★★
およそ空想科学小説と名のつくもので、これほど叙事詩的な魅力をそなえた作品が他にあるのだろうか。伝統的なSFのアイデアを
かりながらも、まったく違う世界観をブラッドベリは構築してみせた。
主題となるのは、タイトルにも冠してある通りで年代記。地球から火星へのアプローチを短編や、さらに短いショートショート形式で
連鎖させ、火星を植民地化していく過程を年表として読ませる。めくるめく好奇心の底流に、優れた文明批評を織り交ぜた珠玉の作品だ。
私的に「二〇〇五年四月 第二のアッシャー邸」の件は、考えさせられると同時に面白いなア。この精神は全然現代にも通じる。むしろ
今なんかジャストフィットしてるのかも。無味乾燥なぐらい合理的に生きているようでいて、まったく合理的じゃない感覚に共感できる。
理性的な〈逃避〉を《過激》としてしまう。創造力の源ともなる〈空想〉を、いやその空想することさえ《危険》とみなしてしまう。
この感覚。。便利この上ない社会において、強迫観念とも呼べるもどかしさが出てくるのはなんなのか。。もちろん本質は常に二律背反
で、今ほど創造性に満ちた時代も珍しく、めまぐるしく創造している。一方で、それらにまったく新しさを感じないのは何故か?もはや
ミーハーになろうにもなれやしない。暴走するのは危険だ。だから抑圧して規制するのは当然の流れではあるが、一歩間違うと〈正直〉で
あることさえ《剥奪》している。この、おどろおどろしいけど愉快なエピソードに一流の風刺を感じてしまう。正直なんだよな。
そして、なんだかんだひっくるめて最後は感動的なんです。人間ほど愚かな行為をする存在もいないが、人間ほど諦めない存在もいないの。
常に、いまから ここから の精神。透徹したブラッドベリの眼差しが何より最高だ。
レイ・ブラッドベリの最高傑作
★★★★★
ブラッドベリといえば、「華氏451度」を思い浮かべるかもしれないが、面白さではこちらが断然上。
精神的成熟を欠いた物質文明の発達、科学万能主義への痛烈な批判を、抒情豊かな文体と哀愁漂う優れた物語によって表現した、「SFの詩人」レイ・ブラッドベリの最高傑作だと私は思っている。
「1999 年1月 ロケットの夏」から「2026年10月 百万年ピクニック」まで、火星を主題にした26の短篇が収められた連作短編集。
ブラッドベリにはほかにも素敵な短篇がいくつもあるけれど、たった一冊だけと言われたら、わたしは迷わず持ってくるだろう。
きらきらと輝く詩情の美しさ、みずみずしさ、透明感がもうほんとに綺麗。ダークなムードの作品もありますが、それもひっくるめてその宝石のような幻想の煌めきにうっとりさせられてしまうほどだ。
小笠原豊樹氏の訳文も、「名訳とはこういうのを言うのだろう」てなくらい見事なもの。素晴らしい読みごたえを堪能させられた一冊。
星新一の源流を見る
★★★★★
年代記に偽りはないが、各話はネタとして独立しており、短編集としても成立している。
日本人には馴染み深い、星新一的なニヒリズムの源流が見出されるだけでなく、SF&ファンタジー的な火星観(美しい砂漠・エキゾチックな生態系・精神的に進歩した原住民)を構築した作品でもあるように思う。
日本にも多い、情緒的でファンタスティックなSF・ファンタジー作品を読む上で、必読の古典作品に位置づけられる。
ただ美しい、一つの作品
★★★★★
美しい文章とは、何だろうか。加藤典洋は『言語表現法講義』の中で、「人の美しさ」というものはない、ただ「美しい人」がいるだけだ、とプルーストの言葉を引用し、美しい文章というものも同じで、「文章の美しさ」などというものはなく、ただ「美しい文章」があって、一人ひとりが自らの感性で「よい」と感じるようなものなのだ、と言っているのだが、この『火星年代記』は、まさしく、ただ「美しい文章」である。
本のレビューというものは、私の感性が感じた何かを、誰かに伝えるためにあるものなのだが、私の感性が「よい」と感じた「美しい文章」というものを伝えるのは、ことさら難しい。例えばここで、「詩的で、透き通っていて、優さが滲み出しているような文章で、美しい」と評したとしても、詩的であるとか、透き通っているだとか、優しいだとか、そういった凡庸な言葉に落とし込んだ瞬間に、ただそこにあった「美しい文章」も、私が感じた「誰かに伝えたかった何か」も、決定的に損なわれてしまう。『火星年代記』は、読みにくい箇所を多分に含んだ訳も含めて、そのような「美しい文章」である。