サルトル哲学の独創性「対他存在」
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第一巻で対自存在と即自存在が峻別され、それぞれの構造が明らかにされた。続く本書第二巻でメインテーマとなるのは対他存在であるが、この対他存在こそ、ハイデッガー哲学にはなかったサルトル哲学ならではの独創的な視点といえよう。
世界には私だけが存在しているのではない。私は見つめる存在であると同時に見つめられる存在である。見つめる主体としての私が、見つめられたとたん客体へと変貌する。他者のまなざしにさらされる私、すなわち対他存在としての私は、対自存在としての私と同一でありながら通約不可能である。両者は絶対的に断絶していながらも分離不可能であり、独我論は暗礁に乗り上げる。それというのももともと自我には他我が含まれているからである。
さらに主体としての私と客体としての私はいずれにもとどまることができず、容易に反転しうる。他者に対する態度において、前者(主体としての私)はサディズム、後者(客体としての私)はマゾヒズムとして現象する。われわれ対自存在はこの相克から脱することができない。「われわれ」という一人称複数形もまた他者を受容した結果ではなく、「われわれ」の外部に他者を設定し、その他者によってまなざされる存在として初めて成立する派生的概念に過ぎない。
独我論に陥ることなく、他我(他者)を自我(自己)のいわば「必要悪」として論じている点、また性の問題を男女の性別や生殖行為ではなく、サディズム・マゾヒズムというカテゴリーで論じている点に、サルトル哲学の圧倒的な独創性がうかがえる。その論述は具体的であり、ハイデッガー以前の無味乾燥な哲学とは一線を画している。