意識の自由の証明
★★★★★
第三巻となる最終巻には「持つ・なす・ある」が収められている。所有・行為・存在に焦点を合わせた議論のテーマは、この浩瀚な哲学書のメインテーマでもある「自由の証明」であると言って大過ないであろう。
一本道を歩いている私の目の前に巨大な岩が立ちふさがり、私は前に進むことができない。この状況のどこに自由があるだろうか。だがサルトルは言う。その岩が私にとって障害であるのは、私がその道を前進したいと思っている限りにおいてである。もしも私が周囲の景色を一望したいと望んでいるならば、その岩は恰好の足場となるであろう。要するに岩そのものは中性であり、それを邪魔な障害とするのも便利な道具とするのも全て私の自由である。
誤解にさらされることが多いが、サルトルの自由論は「何をすることもできる」というポジティヴな自由論ではなく、「全ての行為に責任がある」というネガティヴな自由論である。「人間は自由の刑に処されている」というサルトルの言葉に象徴されるように、決定論の方がまだしも救いがあるように思われるその自由論は、首尾一貫しておりブレることがない。本書の最後に「道徳的展望」と題して次著が道徳論となる可能性が示唆されているが、それが発表されることはついになかった。
故松浪信三郎氏の労作であるこの全訳が出版されて以降、『存在と無』新訳の話はついぞ聞いたことがない。それほど完成度が高いということであろう。二十世紀哲学の名著であり名訳である本書を、文庫本で読むことのできるわれわれ読者は幸せである。